ラディゲ「肉体の悪魔」

肉体の悪魔 (新潮文庫)

肉体の悪魔 (新潮文庫)


私たちはときとして、自分の言動に思ってもみないような小汚い策略が潜んでいたことに愕然とすることがある。抑揚一つで予防線を張り巡らせ、すかし一つに密かな嗜虐心を見出す。意識の支配下にあったはずの肉体が、そこから逃れて統合性に対して叛旗を翻すのである。多くの場合、これは明確な脅威である。というのも、直前までの統一された意図は嘘のようにかき消えてしまい、今や動作の余韻が破廉恥な期待を意識の前景に露呈させるからだ。このことは、清冽な味覚を思い描いていた未知の漿果に齧りついたときの、あの間の抜けた落胆と類似的だ。私たちが望むのは、それよりも、食べ慣れた果物をその味わいを望見しつつ味わう、存在と認識がかちりと噛み合うあの快感である。ゆえに、

最初の接吻の味は、はじめて味わう果実のように、僕を失望させた。われわれは、新しいものの中にではなく、習慣の中に最も大きな快楽を見いだすものである。

ところで、人妻を所有しているのだと一人で決め込んでいる「僕」は、そんな自己に懐疑を呈しながらこうも述べている。

というのは、僕の情欲は習慣に依拠していたが、習慣のいろんなちょっとしたことや、軽い修正が加えられると、この、情欲はかき立てられたから。

予期せぬ些細な放埒に酔い痴れるのは、むしろ自然なこととして理解できる。にも関わらず原則的に習慣からの離陸を認められないのは、「僕」が臆病だからだ。「僕」は愛人ではなく、むしろ「僕」自身の状況に対して支配的でありたいと願う。とはいえ、意味から逃れる逆説的な肉体の動作を忌むのと同じく、これは誰にとっても当然のことであろう。だから、それをエゴイズムと呼称するのは、やや潔癖に過ぎると思える。実際、私は「僕」の不敵な聡明さに淡やかな憧憬の念さえ覚えるのである。驚くべき怜悧さを併せ持つ十六歳に対するやるせない敗北感とともに。