三島由紀夫「午後の曳航」論2少年は物語を夢見る

中学生の登は、父をすでに幼少に亡くしており、それ以来、未亡人の母の流麗な包容に取り囲まれていた。これによって、彼は、母性の攻囲(これについては後述する)の一方で、きらきらした、別誂えの、そこらの並の男には決して許されないようなあの光栄なる人間像が、高貴な男性性を取り落としてすっかり淪落した父親から乖離するという陰惨な事態だけは回避できた。そしてこのことは、登少年が海の男から英雄を検知する第一発見者となり得たことと必ずしも無関係ではないだろう。彼の仲間――「首領」も含めて――には皆父親がいるので、父権が真実を隠蔽する機関にまで成り下がろうとも、「害悪そのもので、人間の醜さをみんな背負っている」と口汚く罵ることで、その実やはり父への淡い未練と駄々っ子らしい拘泥を包み隠すことはできない。その点、登は厳父の空白をごく滑らかに認容しているために、たとえ父が失権しようともそれとは切り離された形で「世界の内的関聯」が残存していることをごく内発的にわきまえていたというわけだ。さて、そんな彼は、ふとしたきっかけで鋳型を思わせる堅牢な肉体の竜二と母の交わりを抽斗の奥から密かに覗き見る。少年の眼には、母の情事もまた「世界の真理」に映ったことだろう。なぜなら、それこそは自己の誕生の由来を饒舌に呈示することで自身の存在形式を規定してくれるというセンセーショナルな幻想を寄与するからである。だが、この幾分醜怪な実態もまた、結局は鮮烈さに訴えただけの姑息なまがいものなのだ。一体、情交の現場がどうして主体の起源としての解たりえようか? そこに繰り広げられる四肢のおぞましいからみ合いと、頭に描いていたユートピアの決定的な落差を見過ごしていた登の鈍感さは、あるいは父親の死によって喚起されたものなのかもしれないが、この片親の少年がまさに片親ゆえに船乗りの竜二の力能を洞察し得たことの方が彼自身にとって遥かに重大だったことはひとまず幸いであった。竜二の作用とはつまり、大義へ赴く夢を見る健気な少年たちへの男性的な童話の備給であり、毎晩寝るときに登の部屋のドアに外側から鍵をかける習慣に暗喩された、登の母・房子の女性的な囲い込みがここで効果を示す。彼女が威厳ある父の役回りを拒否したことで、登は擬装した父への偏執病に陥落することなしに、月明かりに縁どられた竜二のいかった躰を人間世界の絶壁の突端に立つ英姿に心置きなく重ねることが可能になったのである。

「首領」を始めとする登の他の仲間たちも、当初は父親への失望と固執ゆえに虚無的なアナーキズムをかき抱いていたものの、物語の終盤までには竜二の発する「世界の内的関聯」の力には一目置くようになっていたようである。しかし、皮肉なことに、他ならぬ竜二自身もまた神話の無効を告げるけだるい「終わりなき日常」に蚕食されつつあったことに少年らの誰が気づこうか。いや、小説の第一部においてすでに、父性の象徴が腐敗した家庭に回収されつつあったことを登は機敏に読み取っていたと言えるかもしれない。

二等航海士はびしょ濡れの半袖シャツの哀れな姿をさらけ出し、しかも登に対して、へつらうように、不必要な笑い方をした。その笑いは全く不必要だった。それは登を子供扱いにして貶めるばかりではなく、竜二自身をも「子供好きの大人」のみっともない戯画に変えてしまうものだった。彼の明るすぎる、子供むきの大仰な笑い、あれは全く不必要な、けしからん誤謬であった。

登少年の透徹した視線の下では、そうした船乗りの過誤はまさしく英雄の犯した罪科と見受けられるものではあったが、果たしてこの錯誤行為は田中が批評するように、“夢想の生活”とは“夢想”するためにあって“生活”するためにはないという、夢想と現実との誤差に基づいた事実判断に蝟集できるものだろうか。地平線の先に待ち受ける、現実世界と隔絶した彼岸であるからこそ夢想は夢想と呼び習わされるのであり、壮大な叙事詩の主役であったはずの竜二が“生活”に呑み込まれてゆくということはつまり、“夢想”“生活”腐蝕されつつあったことの証左ではないのか。これは本批評において第一の核心部分であるから、丹念に検討しておこう。

当座は異郷の風物に心を躍らせていたものの、年月は、船の生活は、整然たる自然の法則と、ゆれうごく世界の復元力とを教えてくれたにすぎなかったことを竜二に悟らせ、いつしか彼は自分の希望や夢をひとつひとつ点検し、日毎に一つずつ抹消してゆくようになった。だが、考えてみればこれは夢想家の失格でもなんでもない、不毛なまでの論理的必然なのである。理由はこの上なく簡明だ。ただ、海を経巡る冒険が地に足の着いた陸の暮らしの延長としての、生活の紛れもない一部分と化してしまったからである。理想とは、日常のモザイク的総和から常に抜け落ちる隔靴掻痒たるものであり、自己の起源の真相と同じく、原理的に我々が直接見ることのできない、決定的に失われた一つ(「ラカン精神分析」より)なのだ。ゆえに、世界の顛倒か、光栄か、二つに一つであったはずのところの、希望や夢がもはやそこから逃走してしまった船舶生活に食傷した竜二が、それでいてなお

俺には何か、格別の運命がそなわっている筈だ。きらきらした、別誂えの、そこらの並の男には決して許されないような運命が

と無邪気にも信じこむのは至極妥当にして純朴な反応であろう。燃えるような出発の感情が、十数年の航海歴のあいだに褪せてしまったにも関わらず、彼が「遠くなってく港の街に」という歌詞のセンチメンタルな流行歌に涙ぐむのは、田中に言わせれば“夢想”“生活”の両立の不可能性への悲嘆に起因するのであろうが、この解釈は明らかに、この年になっても彼が放置したままにしている遠い暗い柔弱な部分を見落としている。すなわち、“夢想”へと漕ぎ出た船は、“生活”何の係累もないゆえに、理想の王国をたずねて原光景の散らばる海原を永劫に彷徨し続けるしかないのであり、必竟、遠い暗い柔弱な部分には“生活”を忌避する竜二の少年らしいこうした執拗な頑迷さこそが凝縮されていたのである。

近代以前であれば、おそらくそれで良かった。栄光と死と女三位一体を奪還すべく宿命づけられた青年は、方程式を解き続けていればやがてそれが方程式であることを忘却し得たのだ。だが、迫り来るポストモダンの波濤は、旧式の物語を大時代の遥か彼方へと打ち遣ってしまった。「神は死んだ」と触れ込みまわる時代の煽動によって、今や竜二は方程式の解をなんとも野放図な形態で与えられたのだ。その形態とは、瀕死に陥った大衆小説のヴァリエーションとでも言い表せるのだろうが、それではあまりにも高踏的で要領を得ないので、私はここで一つの翻案を試みよう。竜二は房子との逢い引きにおいて、甘美な観念や、彼の脳裡にわけもなく育まれてきた理想的な愛の形式の代わりに自身の惨めな来歴を吐露し、海の力と恩恵の代わりにいかにもパセティックな流行歌を口ずさんでしまう。情緒に耽溺する(いわゆる)男のロマンの披瀝を彼が躊躇うのは、半ばは、女にはわからないと思ったからであるが、残りの半分こそはユートピアの駆逐を受けての彼自身の微妙な、しかし取り返しのつかない変質に由来するのである。