伊藤左千夫「野菊の墓」

野菊の墓・隣の嫁 (角川文庫)

野菊の墓・隣の嫁 (角川文庫)


愛する人とのつながりを習わしに引き裂かれる哀切と、農村に暮らす人々の豊かな人情が描かれている。アララギ派というからには、ちょうどミレーの農夫のような、陰翳深い農民生活を支える奔放な生命力や清貧に取材した小説を読みたかったのだが、そこは期待はずれに終わってしまった。巻末には作品解説とともに弟子の追憶や夏目漱石の批評も所収されているが、どれも伊藤とその小説に辛辣な評価を下しているのがなんとも言えない。あるいは、農家に生まれ、出世を志しながらも若きにおいて一つの挫折を味わったこの元・牛乳搾取業者に対して、私たちは心の何処かでノスタルジーと混ぜ合わせになった不思議な慕情を抱いており、それが知らず識らず作家に対するミレー的な期待を膨らませるのかもしれない。後世の酷評が私の勝手な見込み違いと機を同じくしていると見るのはうがちすぎであろうか。
現代でも、都市からほんの少し離れるだけで日本の原風景はいたる所に見つけられる。けれど、私たちが切ないばかりの郷愁の念を覚えるのは、稲穂が輝きなびくあいだにあぜ道が続くあの光景にではなく、おそらくそこに生きる人間がたたえる底の知れない幽玄の深みにではあるまいかと私は感じる。今の多くの日本人は、だから自分たちが失った得体のしれない陰翳をミレーや伊藤に喚起され、当初の薄っぺらい望郷はすぐさま農民に対する畏怖へと移り変わる、というよりもその欲求を自己に見いだす。そのとき、「野菊の墓」の読者はそこに流れる哀惜と人情から望遠されるものを覗いて、幽暗なるものの忘失への後ろめたさを呼び起こされずにはいられない。