マルキ・ド・サド「新ジュスティーヌ」

新ジュスティーヌ (河出文庫)
 

むろん、相互の幸福を実現することは困難であるにしても、男女いずれの人間もが、自分のために幸福を得ようと努力することに変りはないので、弱者はこの服従という行為により、せめて自分に許された最小限の幸福の量を取り集めなければならない。これに反して、強者は自分の気に入るあらゆる圧迫の手段を用いて、自分の幸福のために努力する。というのは、力による幸福の唯一のものは、強者の能力の十全の行使、すなわち、弱者のもっとも完全な圧迫のうちにこそあるものだからじゃ。

ここに私たちは、地上における快楽の総量を最大化すべしという、ベンサム的な功利主義の悪徳的な形態の極北を見出す。サドに言わせれば、美徳という名の弱者の快楽は、当人の健康や虚栄心、あるいは自己愛の産物に過ぎず、その快楽は一人の人間に許された幸福量に収まりきるものである。一方で、悪徳に染まりきった強者は、最大多数の弱者を圧迫すべく、その持てる権限の許す限り勢力を拡張することで、圧制の度合に比例して快楽を際限なく増幅させることができる。弱者の幸福は強者に服従していても生存に必要な最小限は保証されるのだから、強者のもっとも苛烈な勢力的支配が実現されるとき、かつてない快楽の総量が達成されるというわけだ。

サドの道徳原理(それはすなわち反道徳原理なのだが)において、人間の快楽を計量するという功利主義の難題が霧散してしまうことは興味深い。だがそれ以上に私たちを瞠目させるのは、サドとベンサムがその代表的な著作によって新たな倫理思想を世に産み落としたのが、いずれも1780年代であったことだ。