三島由紀夫「午後の曳航」論1父の背について

あらすじ

船乗り竜二の逞しい肉体と精神に憧れていた登は、母と竜二の抱擁を垣間見て愕然とする。矮小な世間とは無縁であった海の男が結婚を考え、陸の生活に馴染んでゆくとは……。それは登にとって赦しがたい屈辱であり、敵意にみちた現実の挑戦であった。登は仲間とともに「自分達の未来の姿」を死刑に処すことで大人の世界に反撃する――。少年の透徹した観念の眼がえぐる傑作。(新潮文庫

この小説を読みながら、私は、近代以来の家父長制度が崩落しつつあった中で、権威の消滅と父性の退行を受けて当時の鋭敏な青少年がつぶさに看取した、あの恐るべき予感とそれへの戦慄に思いを馳せざるを得なかった。その予感とは、陳腐な言葉で言えば大きな物語の消失に要約されるものであったが、より限定的には、青年が茫漠たる荒涼の大海――海でなければ紺碧の大空でも、あるいは漆黒の大宇宙でもよい――に寄せるあの男性的な詩情の受け皿が喪われたことによる通過儀礼の脱臼に他ならない。今や片親となって途方に暮れる少年たちは架空の父を捏造しようとするだろう。それはあの情けない「家庭の父親」とは違う、屈強な「海の男」であった。

かつて、父は偉大であったという。そのいかつい背は張りつめた威厳を発し、妻子を圧倒して静謐に君臨する王の立ち姿はいかにも傲岸であり、そして見事に壮観であった。彼の勇姿が最も輝くのは、労働がはだけた背面をしとどの汗水に濡らすそのときであったに違いない。振り下ろす鍬が、あるいは手繰り寄せる漁船の手綱が彼の筋骨の保証となって麗しく彩ってくれるのだ。息子たちが父親の隆々した筋肉がうごめく毎秒毎秒に目を凝らすことはそのまま、世界のロマンと人間の栄光を覗き見ることでもあったことだろう。なぜならば、肩峰に浮かぶ玉となった汗は、野望に満ちた衒った自意識と、屈従を余儀なくさせる憎らしい父への畏怖の弁証法を経ることで、しばしば陶酔的冒険を仰ぎ見るための天窓へと容易に変貌するからだ。ところが、この形而上の窓からこわごわと眺望した少年は、そこに延々と拡がる遠望の与えるすこぶる荒々しい佇まいに意外な尻込みを憶えるかもしれない。彼は、人生など取るに足りないというそれまでの狷介な余裕によって甘たるい水菓子のごとくの大味に思われていた社会の実相の裏に、父と全く同じ種類の仮借ない暴力性が沈潜していたことを感じ取ったのである。理想郷が受けたこの外傷を、ある者は去勢と呼ぶかもしれないが、そうした脅威が取りも直さず父の荘厳さを表徴する権威として働き、少年は権力を自らのものにすべく「所有する」ことを覚え始める。かくて子は奪われた純真な世界を取り戻すために新世界の英雄となるべく、父の屹立とした背を学び直すだろう。これが、息子が父の背を見ることの旧来の定式である。

「午後の曳航」の舞台は、父親があの勇ましい父性から切り離されていつの間にか倦怠した家庭に埋没してしまった絶望的な時代だ。したがって、前段で叙述した教育的作用の基盤たる「父」はもはや不在なのである。機能をいかに代替させるかという課題はむろん重要ではあろうが、ここで描かれるのはむしろ少年たちのヒロイックな夢想への潜勢的な情熱が病的な形で温存される過程であると言えよう。父の堕落形態はもはや父ではない――この厳粛な宣告を心ならずも自白する父の背を察知し、「父」になることの拒絶をさりげなく判決された少年たちは、あらすじが述べているような極めて過激な形式で――あの独得のニヒルさを笑窪に宿しながら――対症療法を講ずるのであり、これから見てゆくように、彼らの無垢ゆえの代償行為の未完全性がこの小説の悲劇たるゆえんなのである。だが、本題に入る前に、私はここで周縁のいくつかのきわどい設定を確認しておきたいと思う。田中美代子(以下田中)が解説でも述べている通り、「午後の曳航」は、パセティックな夢に潜む抒情の真実が危急存亡に瀕していることを優れたアイロニーでもって暗喩してみせると同時に、なんとも極夜的な閉塞感という凡庸な、それでいて失意が瀰漫する家庭生活という虚しい永遠が実は待ち受けていることを描いている。つまり、日常生活の惰性という「その先」である。その意味で、登少年たちが自らの世界をどう修復させてゆくかという問題は、三島の死後四十年を数える現代にあっていよいよ顧慮すべき真実性を帯びてくると私は考えるに到った。というのも、腺病質な父権が一層か弱に息も絶え絶えとなってゆく七十年代以降、現在もなお私たちは「首領」の悲痛な認識にすらろくに辿り着いていないのである。だが、(それゆえに、)なんとも恐るべき怪物である「首領」が、その裏腹に神経症的な繊細さを持ち合わせていることが私たちの唯一の救いとなってくれている。

僕たちの義務はわかっているね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理はめ込まなくちゃいけない。そうしなくちゃ世界の秩序が保てない。僕たちは世界が空っぽだということを知っているんだから、大切なのは、その空っぽの秩序を何とか保って行くことにしかない。

彼が信仰する「世界の内的関聯」というものを、田中は「統一的な世界像を復元する力」を可能にさせる条件だとするが、要するにさる哲学者が言うところの「物自体」であり、「質料(ヒュレー)」であり、つまるところ存在論にうち悩む教条的な人間が有難がるところの「この世界の真理」なのである。存在者を存在させている第一原因を検出した気になりたいならば、生物の肉体を不器用に破壊してみることだ。存在と認識は驚くほど巧緻に相互連関している。散らかった内臓腹腔にたまった血の凄惨な光景はいつしか存在と存在者を美しく接合させ、そのひとつひとつが完全なものとしてのきらびやかな緻密さを提供してくれることだろう。反道徳と虐殺という形而上学的犯罪に手を借りたこの治療行為は、しかし言うまでもなく日常からの逸脱にたじろぐ人間の習性を逆用した錯覚に過ぎないものであり、仔猫の殺戮的解剖が歯車の回復に役立つという発想は十三歳らしい小賢しさの名残と言える。

とはいえ、主題となる「船乗り竜二の処刑」とは、以上の陋劣な束の間の論理が一端を占めていながらも、決してそれだけで汲み尽くされるような単線仕様には出来上がっていない。世界の秩序を復元するには、空位の父権という初源からの拘束に対していかに自力でダンディズムな桃源郷を確保するかという死活問題を決着させなければならないのであって、彼ら少年にとって「この世界の真理」の本義とは実のところマチズモな冒険者という耽美的なビジョンとそれを引き立てる贅沢な舞台装置なのである。すなわち、猫殺しという秘教的な儀式とは、機能不全な父の背を前にしての模擬的な例解でしかなく、少年たちは紡ぎだされる英傑の冒険譚を、背に光る玉の汗をスクリーンとすることなしに何かしらに投影させなければならぬという根源的不安を常に抱えているのだ。反定立なしに弁証法を敢行するというこの荒業は最終的に二等航海士の死刑となって顕現することになるのだが、この不具性を理解するためには、塚崎竜二というひとつのオブジェと、彼が去勢済みの哀れな少年に背負わされている象徴的意味合いもまた解読せねばなるまい。