トーマス・マン「魔の山」

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山」では、重苦しい陰鬱さのあまり人間を茫然自失とさせてしまう嵐を秘めた想念が、どろどろとした甲虫の蛹の中身のように、観念の殻の内部で渦まいており、それが地上的な快活さにとり憑いて、人間の精神がよどんだ澱のように滞留した観念そのものに変質してしまったかのようである。この人間は独自の鋭敏さで感覚のあらゆる襞をこわごわと覗きこむ視線の糸によって世界に宙吊りにされており、その存在はおよそ時間という形式をもたないかに見える。時間が停滞するというよりも、進行する時間を指し示す時計の針の動きが時間との対応を見失って、ちょうど寄せてはくるおしく砕ける波が砂浜にじりじりとその鉤爪の跡を残して引いていく灰色の海を思わせるように、空間に刻印されるくたびれた楔の意味しかもたなくなるような、そんな荒々しい非時間性が君臨している。そして、良識を押し流す放埒な観念への暗い傾斜を照らしだし、あたかも、ぜんまい仕掛けで統御され、脈打つ秘められた内臓がまるごと裏返されたかのように、敏活な生活を彩るひとつひとつのきめ細かい動作に優美な健全さへと人間を唱導してくれるはずの、啓蒙的市民的精神は、嵐にさらされて今にも消え入る蠟燭の灯のように、時間性から遊離したどろどろの蛹に包みこまれ、弱々しく絶望的な抗いを見せている。「魔の山」における人間の肖像のこのような基本的要素は、「ブッデンブローク家の人びと」において代を重ねるごとに徐々に深刻さを増して描かれるところの、精神の複雑な諸要素が奏でる音楽が与える重力、あるいは浮力のみによって地上にしがみつこうとする芸術家的人間というものの諸相に対する、作家のアンビバレントな感情を照らしだすものである。つまり、マンにとって、真の芸術が生み出される場所はつねに時間が凝固してその意味を失ってしまうところなのだが、一方で、芸術家は、快活な市民精神を筆をもつその手に溢れさせなければ、自分自身の時を刻むぜんまいが観念の海のどよめきの中にたちどころにかき消えて、ちょうど「ヴェニスに死す」で描かれているように、徐々に抵抗力を奪われてなすすべなく死を迎え入れるしかない熱病に侵され、不透明な蛹の殻の中に、苦痛に満ちた恍惚感とともにまんじりともせず封じ込められる宿命にあるのである。