オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

真紅のくちびる、無邪気な碧い眼、ちぢれた金髪のすばらしい美男子であるドリアン・グレイは、画家バジルのお気に入りのモデルであり、バジルにとっては、芸術を芸術たらしめる、見えざる理想の権化として崇拝の対象ですらあった。事実、ドリアン・グレイは世間の汚濁をいっさい知らず、自分自身の美しさすら自覚のない、純情にして恬淡な一青年だった。ところが、この青年がバジルの友人ヘンリー卿と出会い、かれにかれ自身の美しさと、ある種シニックに満ちた快楽主義を教えこまれたときから、かれは美的感覚のみを追い求め、放埒にしてときとして淫蕩な快楽にふけることを覚えるようになる。それと並行して、バジルが描いたかれの美貌を忠実に写し取ったはずの肖像画は、しだいに狡猾さと偽善にねじれた醜さをたたえるようになる。後半、ドリアンは自分の罪悪を強くなじるバジルへの憎悪から、かれを殺害するという蛮行におよぶ。この抱えきれない大きな罪業へのおびえから、ドリアンはやがて自身の頽廃的な快楽主義からの改心を誓うものの、いやらしく老けてゆく肖像画に魂の呪わしい警告を見てとり、罪悪から逃避して平和を手に入れんものと肖像画をナイフで突き刺す。それはかれ自身の死をも意味するのであった。
「ドリアン・グレイの肖像」のおおまかなあらすじはこのようなものである。肖像画はドリアンの美しさが丹念に描きこまれたものであり、画家バジルはかれの見えざる永遠の理想をこの偶像に託した。この小説の最後において、おそるべき肖像画が実はドリアンの良心であり、かれの魂そのものであったことが明らかになるわけだが、このモチーフは、バジルが常日頃探し求めて、ついにドリアンその人にその完全無欠な暗示を見出したところの芸術様式――魂と肉体の調和――に先取りされていたものに他ならない。この意味で、顔貌の醜怪さが、その人間の道徳的な低劣を表すというこの作品の核心は、実はバジルの信念の直接的な反映である。だが、必ずしもドリアンはバジルと同様に、醜くゆがんだ肖像画に精神の堕落と腐敗を見て取るわけではない。かれは肖像画を厭わしく思ったり、おびえたりするものの、ときとしてある種グロテスクな快感とともに嘲笑を浴びせたりもする。それは、良心に対するドリアンの態度が、バジルの素朴なモラリズムと、ヘンリー卿の逆説に満ちた冷笑主義とのあいだを往復するかのように揺れ動いているからである。良心に対する態度をめぐるドリアンの変容を軸にこの小説を読むとき、われわれはここに、無垢で純情な青年がいかに罪に手を染め、それと対峙するかというビルドゥングス・ロマンを見出すこともできるだろう。この美しい青年はしかし、自身が犯した恐ろしい罪業についに耐えることができずに、おのれの良心と無理心中を遂げる結末を迎えるのである。