梶井基次郎「桜の樹の下には」「愛撫」読解


桜の樹の下には」においては、述懐者の様々な空想、というか病的な執着が開陳されています。

桜の根は貪婪な蛸のように、それ(注:種々の動物の屍体)を抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を集めて、その液体を吸っている。

それは渓の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。(中略)それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。(中略)俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような惨忍なよろこびを俺は味わった。

お前は脇の下を拭いているね。(中略)べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。

どうしてこんなにも変態な想像力に支配されているのでしょうか。それは、かれに言わせると、美しさがなにか信じられないもののような気がし、美しい対象を認識してももうろうとした心象しか得られないばかりか、曖昧で不定な感覚が高ずるあまり不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になってしまったからです。そこで、上のような偏執的な惨劇を導入することで、自分を不安がらせた神秘から自由になることを通して、心象は明確になり、そして憂鬱が完成することによって心は和むというのですね。なんだかよく分からないですが、以下ではこうしたかれの心境の変遷と思惑を解明してみようと思います。
さて、これら三つの妄想には共通点があります。まず、自己の認識と美意識への不信です。かれは桜の樹、水溜、脇の下の冷や汗といった対象を、感官から受け取った知覚作用の帰結としてそのまま素直に受容できません。認識にリアリティが伴わないばかりに、自己の存在不安まで呼び起こされてしまったのです。そして、二つ目の共通点としてあるのが、対象を形づくり、取り決める陰惨な本質への志向です。桜の樹を生育させているものは腐爛した醜悪な屍体であり、水溜と見えたものはかげろうの無数の死骸であり、汗は精液でなければならない――。直観に従ったなにげない認識で事足りていたはずの対象が、実はその裏にむごたらしい実態が隠されていたのだとみなさなくては現実感を取り戻せないのです。

一方、「愛撫」ではこの微妙な感覚を逆側から描いています。

爪のない猫! こんな、 便りない、哀れな心持ちのものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才にも似ている!
この空想はいつも私を悲しくする。

こちらの述懐者は猫の爪がこの動物の活力であり、智慧であり、精霊であり、一切であることを強く信じています。眼を抜かれても、髭を抜かれても猫は生きているにちがいないが、爪を全て切られた猫は物を食べる元気さえ失せて、ついには――死んでしまうとまで言ってのけます。かれにとって、爪があるということは常に猫の実質なのですね。それは猫それ自体であり、猫であることを根拠づける唯一の証左というわけです。要するに、爪を失った猫を想うかれの悲しみは、木登り人の裾を目がけて跳びかかることも爪を研ぐこともできない猫を、猫として認識することができないことに起因していると言えます。ところで、猫の爪は通常、あの「柔らかい蹠(あしのうら)の、鞘のなかに隠されて」いますね。だからこそかれは猫の蹠を眼蓋にあてがって、快い猫の重量や、温かいその蹠といったこの世のものでない休息を味わうことができるわけですが、その楽しみは猫が猫である限りにおいて有効のはずです。つまり、蹠に隠匿された、鉤のように曲った、匕首のように鋭い爪という猫の本質を規定する存在が安らぎの知覚をその基礎からもたらしているとも言えます。その意味で、これは「桜の樹の下」における奇特な感覚とまったく同一です。惨劇を欠いた桜の樹と同じく、普段は覆い隠されている、だがひとたびベールを脱がせば慄然とするような存在の実態だけが確からしい認識を保証できるのですね。

ここで再び「桜の樹の下には」に戻りましょう。認識と乖離する形でグロテスクな存在が先行することを確認したときの述懐者の心境について考えてみます。一部再掲になってクドいですが、一先ずまとめてみましょう。

俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。

俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような惨忍なよろこびを俺は味わった。

俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼の憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んで来る。

自由というのは、知覚に基づいた従順な認識による専制的支配からの脱却を指しています。これはまあいいのですが、存在の根底に潜む内質から発せられる決定的な知覚が付与されることにかれが快楽を見いだしていることは丁寧に検証すべきです。そもそも、それがなぜよろこびに繋がるのか。このことは先刻述べましたね。そう、五官がすでに存在の確証をかれに与えないならば、対象の由来を確定するに当たって、かれの所与であるところの頼りない知覚認識だけでは余りに不足だったからです(不足の解消を喜ばない者がいましょうか)。内面の大まかな軌跡はこれだけです。したがって追求すべきは、想像が腐爛死体であることの必要性、というよりは有効性なんですね。
存在の感覚的な裏付けを求める一連の企図を墓場を発いて屍体を嗜むという喩えは批評的な優れた表現です。おかげで私もいちから考察する手間が省けました。墓場荒らしは、蛆が湧き臭気漂う腐爛屍体が墓の下に存在するということは頭で理解していますが、それがどのような臭いなのか、そしてどのような容姿なのか、知覚としては捉えることができていません。だから、屍体を鼻で嗅ぎ目で見たときには、嫌悪感と同時に、認識と存在を見事に一致させたことによるひとつの悦楽をも覚えることでしょう。え? 普通の人間はそんな悦びなど覚えないって? けれど、認識と存在の同調がもたらす楽しみであれば日常生活に溢れているではありませんか。それは「懐かしいあの音楽が聴きたいな」と思って実際に曲を聴いたときの充溢した満足感と同じことです。あるいは、試験の答案が返却されるとき、予測が結果と一致していたときの高揚感とも類似していますね。ただひとつ異なる部分は、「屍体の場合、グロい」ということです。残酷無残を予期しつつ、その態様を発見したときにも同様の喜悦が湧き起こりますが、同時に、「そんなグロを予見していた自分」にも気づかざるを得ません。惨忍へと向かう自己の潜在的な異常性を発掘した述懐者はだから、惨忍なよろこびを味わったのです。つまり、よろこび惨忍である以上に、かれ自身が惨忍なのであり、憂鬱はそこから発せられるのですね。解釈はこれでいいとして、では、グロテスクな実態への(演出された)看破がもたらす利便はなんでしょう。いや、精確に問うならば、なぜかれはグロを想像しようとしたのでしょうか。簡単です。酸鼻を極める陰惨な対象はしばしば人を仮借ない緊張へと向かわせるからに他なりません。猶予無い現実との対峙、すなわちリアリティですね。もうろうとした心象に支配されていかなる感情も虚偽にしか思われないならば、容赦ない厳然たる事実を自分に突きつけさせて空虚に苦しむ余裕を雲散霧消させればよい――。述懐者はこのことを計算の上で、あえて屍体を本源として看取するに到ったわけなのです。繰り返すと、ここには二つの目論見が前提としてあります。第一に、不安定な美意識の整合性を復旧させるために(=美しいものを美しいと素朴に受入れるために)知覚の参照項として存在の隠微な核心を定めること。第二に、それを思わず目を背けてしまうようなおぞましいものにすることで、認識の否応無い強制性をもたらすこと。桜の樹の下には屍体が埋まっている!という着想には、このような計略が秘密裡に潜んでいたのです。
これでもう明らかでしょうが、惨劇による平衡というのも、認識と存在の釣り合いという理解になります。知覚が本質に従属的でなくてはならないのを見越して、空想による本質の措定で逆に知覚を操作しているとも言えるでしょうね。存在の要諦をいかに作り上げて認識へと予定調和的に組み込むかがここでは問題なのです。では、最後の憂鬱完成への希求とは一体なんなのでしょうか。述懐者が空想に入る前からすでに不安と憂鬱を抱えていたことを思い出してください。それは認識の無根拠性と美意識喪失への危機感がひとつの要因であったわけですが、もうひとつ、自分が創造することになる恐ろしい内質を含み込んでいる存在への嫌な予感(そしてそんな自分へのいやけ)も含まれていましたね。これは墓場荒らしと事情はまったく同じことです。かれらは感性の正当性を得るべく積極的に存在の実相を掘り起こしてゆく過程にありながら、臭いや見た目といった知覚はとうに寄与されているのですから、残酷にして惨憺たる存在はその時点である程度まで本性を露出しているんですね。グロを前にした時の「うわっ」という尻込みと、鼻をつくような腐臭はしかし、その全貌があらわになってようやく認識の根拠としての存在たりえます。存在への嫌悪感と、忌避したくなるような存在の措定という憂鬱の全過程を完遂して初めて桜の樹の美しさは容認されるのです。そして述懐者はまさに美への迎合を目指して憂鬱完成させようとするのですね。

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。

ここにあるのは、桜の美しさをありのまま受容しようとする一途さだけです。それも、認識と存在を合致させるべく企まれた偽装的な惨劇の本質看取によって自分を騙してまで桜を愛でようとしたのです。本来は拠り所たる感性を信頼できないばかりに、対象を歪曲してまで美意識の確証を得ようとするけなげさが描かれていると言うことができるでしょう。