木村敏「異常の構造」去勢の未介入という病について

異常の構造 (講談社現代新書)

異常の構造 (講談社現代新書)


精神分裂病、今で言うところの統合失調症の患者の内部で何が起こっているのかについて、「常識」というものの存在形式を考え直すことでアプローチしていく新書。昭和48年に第一刷が発行というから、昔からのロングセラーである。
常識や自己同一性などの「自明性の喪失」を症状の根幹と見る視線が新鮮に映った。それ以外では特に目新しい知見はなかったのだが、患者の供述を読んでいるうちに、精神病についてちょっと思いついたことがあるので以下に書いてみる。

自己の統合性を外部の鏡像に委ねてしまうことで、主体のリーダーシップをめぐって相争う想像的なシーソー関係から、「父の名」で示される絶対的他者の審級を受けて(=去勢)象徴的な回路を手に入れる過程を鏡像段階と呼ぶ。前段階の、鏡像的自我と主人性を争うシーンが、イメージの支配する想像界であり、錯綜した無媒介的二者関係が言語活動という代補を受ける後段階が、象徴界の参入と言われる事態である。と、ここまではさるラカンの解説書からの引用が主で、私自身もあまりよく理解してはいないのだが、自分が自分の主人であるという「自明性の喪失」が想像界特有の危機だということが分かれば、統合失調症者の場合なにが問題となっているのかは容易に推測できる。
これと合わせて興味深いのは、精神分析がしばしば神経症を見事に治癒させることはできても、分裂病の治療にはまるで歯が立たなかったという対照的な現象である。思えばフロイトに発する精神分析は、「エディプスコンプレックス」と呼ばれる通り、想像界象徴界の連関を指摘する理論群であり、そこでは常に去勢というひとつの象徴化にアクセントが置かれていた。つまり、(狭義の)精神分析治療とは後段階のやり残しを「去勢の失敗」と捉えて、想像界に留まっている情景・イメージ(トラウマとも言う)をなんとかして言語化へと導いてやることにより象徴化を再度試みることに他ならないのだが、一方で、想像界における鏡像的自我との死に物狂いの格闘に呑み込まれ、あるいはついに自己の統一像を奪われてしまった者の苦悩には手も足も出ないわけだ。そして、外部の鏡像に主体性を吸い取られてしまったまま、想像界から象徴界への移行を免れて前段階に滞留せざるを得なかった人間が、分裂病者としての症状を呈することになるのではなかろうか。
「異常の構造」においても、「全」としての在り方から「一」としての自己を十分に屹立せしめることができないゆえに、「一」が「一」としての単一性を保持することが不可能になることから「1=1」(つまり、自明性)の基本公式が根本から瓦解する、すなわち分裂するという認識が示されている。この状況においては偽自己が真の基本的な自己の不在を代償している、という記述もあり、これはそのまま、客観の視線を得ることで自分をひとりの人間だと思いなすに至る(「大文字の他者」の導入)ための構造化の契機が失われていたという意味で、やはり自己と鏡像自己の分裂という「去勢の失敗」以前の主体性確立の頓挫が予想されているのである。
鏡像段階論によれば、「正常に」成長を経た人間とて、自己の統一性を預けているところの外部の像と闘って勝利したからこそ象徴界への道を歩むということではまったくない。それどころか、逆に、象徴界の強制介入によって鏡像との格闘は主体もろとも対消滅するのであり、問題圏がうやむやのままでシニフィアンの場面へと吊り上げられ、留保されるのが一般的だ。したがって、分裂病の発病には、いつまでも終始切り上げられることのない想像界におけるアンバランスなイメージが牽引していると考えられる。まさに「父の名」という象徴化・去勢の不在が自明性の喪失を生むのだ。
ところで、このように表現すると、まるで教条的で形式的な教育を施す親であればあるほど、より事態を防げるかのように映るのだが、実際はその反対で、その傾向を強く持つ宗教家・教育者の子に分裂病発症の割合がすこぶる高いという統計的事実はまた一段と示唆的である。このことは、「去勢」という心的過程が規範の一面的な押し付けによるものでは決してないことを指示するに余りある結果だろう。類例をもとにして、著者のように、発症の原因を親子間の心理的距離の隔たりであると予測することも不可能ではないものの、そのままひっくり返して、よもや親と子の密着・相互依存状態こそが去勢をもたらすものだという洞察を引き出すことには明らかに無理がある。このように、病因の解明が尋常ならざる困難に阻まれていることはこの事情だけでも容易に想像がつくのではあるが、いずれにしても、上記のように正常と異常を弁別する相対的な見方を獲得することで、統合失調症患者の課題を、自己確立という単に発達心理学的な要素だけに還元することの欺瞞性は十分確かめられるだろう。むしろ、「正常人」における自己確立という成長史が、全面的にまやかしの錯覚であることを認めることは、分裂病者を主体性の偽装につまづいた者として把握することが、治療の上でより核心的となることへの確信にもつながるわけである。*1主体性とは誰にとっても触れることのできない幻想であり、患者をそのイメージに戯れさせたままでおくことは極めて危険なのだ。


なお、鏡像段階論の要旨として以下の書籍を参照した。


現代思想冒険者たちSelect 鏡像段階 ラカン

現代思想冒険者たちSelect 鏡像段階 ラカン

*1:鏡像段階に照らせば、統合の定まっていない自己が土台もろとも危機に瀕するような、第三の次元からの圧迫的な脅威を介入させることで、去勢の再演が可能となるかもしれない。こう言うと大袈裟だが、それは、「全」が「一」へと弁証法的に見直される、「人間関係」という苦渋的な体験場面を抜け出ることではないと考える。