- 作者: コクトー,鈴木力衛
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/08/06
- メディア: 文庫
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エリザベートはそれを胸に押しつけ、むき出しの美しい腕で抱きしめ、弟とざりがにのあいだに、食い意地の張った眼ざしを投げるのであった。
「ジェラール、ざりがにはどう? そうよ、そうよ! いらっしゃい、いらっしゃいってば! 頬っぺたが落ちそうよ」
(中略)
「ねえ、ジェラール、十六の男の子が、ざりがにを一匹くださいって、ぺこぺこ頭を下げるほどみっともないことがあると思う? この調子だと、絨毯をなめたり四つん這いになったりするような芸当だって、しないとも限らないわ。
(中略)
神託が終ると、ポールは
「ねえ、ジェラール」と呼びかけ、高らかに朗読をつづけるのであった。
我は愛す、彼女の悪趣味を、そのけばけばしきスカートを、
その大きな、いびつのショールを、
そしてまたその狭き顔を。
(中略)
エリザベートは新聞を手にとって、ポールの声色を真似してみせると前置きして、三面記事を読みあげた。ポールは『たくさんだ、たくさんだ!』と叫んだが、姉は金切声で読みつづけた。
夢中になって読んでいる姉には新聞の裏側が見えないので、ポールはそれにつけこんで腕をのばし、ジェラールがとめるひまもあらばこそ、牛乳を力いっぱい姉に投げつけた。
この異常なほどのテンションの痴話喧嘩が、赤い安綿布が、舞台装置を真紅の薄暗がりのなかに浸している中で繰り広げられていることにも注目してください。衒った演出のもとで過剰に感情的な言動が強調されているさまは、さながら壮大な劇場を舞台にしたオペラを思わせます。日常の風景の中で突如として出現する激情の応酬が、いかにも作為的な仰々しさにまとわられていることがお分かり頂けるでしょう。このことは作者も言及していますが、付け加えて、絶頂の最中にある心理の興味深い特徴を以下のように記しています。
この劇場の主役たちの誰もが、顧客の役をする人物にいたるまで、一つの役を演じるという意識を持っていなかった。
つまり、小説内の彼らが芝居をしていることは事実なのですが、当の本人はそれが芝居であることに気づいていない。その奇形的な食い違いを支えているものが無教養で、犯罪をやってのけるほど新鮮であるという条件であることは明らかですが、これは先ほど言った、意志の欠如した無目的性、すなわち不健全な動物性と同じことなんですね。つまり、恍惚の詩情に取り込まれている状況は、彼らにとって判断以前の自然環境のようなもので、演技や理性が手の届くところにはないのです。エリザベートが一度、働くことを自ら意欲するものの、小説の終末では再び野放図な茶番に熱狂してしまうのも、彼女の気質が常にすでにそれとは意識されない演劇の情熱に回収されていることを示しています。
そうすると、彼らの狂ったような錯覚は、演技というよりはむしろ、本能に基づいた生活力と見立てる方が適切かもしれないですね。エリザベートとポールは、人々がそこに義務感なり熱意を見出す労働従事や学校教育にほとんど興味がなく、自分たちが教育制度からドロップアウトしても、さした後悔や執着は見せていません。しかしその代わり、彼らは焦燥感に塗れた虚構の世界を演出することに人並みならぬ努力と熱中ぶりを発揮しているのです。人を日々の活動へと向かわせる先鋭的な思考の営為を理性を呼ぶならば、姉弟を支配している幻想的な取り違えは、彼らを生命力溢れるオペラへと駆り立てる点でまさしく理性的です。一般的な理性と異なる点は、実質的な生活と乖離し、しかもひどく退廃的なところが挙げられるでしょうが、それが日常を駆動させるには不可欠な、根幹的な思考形態であることに変わりはないわけです。
通常一般の理性とは別範疇にある、こうした逸脱した生命力の根強さは、ドストエフスキーの文学作品においても形を変えて表れています。「カラマーゾフの兄弟」では、女に夢中になったり、酒に溺れたり、聖職者の処刑に大喝采を送るといった、無教養の権化のような低俗な欲動が、イワンによって「カラマーゾフ的な力」と呼び与えられています。それは見境なく猛り狂うエンジンのようなもので、理論にならぬ理論によって、淫蕩や凶暴といったありとあらゆる熱情を総動員して、人を奔馬のごとく生へと駆り立てるものとされています。もしカラマーゾフ的な人間がいるとしたら、彼の生活はこのカラマーゾフ的な力の作用下にあり、常にその命じる先へ向けて活動が行われるに違いありません。「恐るべき子供たち」を支配する芝居じみた狂熱もこれとまったく同様で、彼らの破滅的な日々の生活が、甘美な幻想へ飛翔へと強力に志向されていることを考え合わせれば、カラマーゾフ的な力に対応するものがいわば「恐るべき子供たち」の戯曲的な恍惚感にあたることになるでしょう。
結末としては、生活を駆り立てるその魅惑的なエネルギーが姉弟を無理心中へと追い込んでしまうのですが、実際、生の絶頂を極めようとすれば死ぬしかなく、また、まさにそれによって生の最高度の恍惚は完遂されるのですから、過剰な生命力の露出として自殺はある種必然的な展開と言えるかもしれません。そうした意味では、少年少女らの取り憑かれたような閉塞的な不安は、激情がいざなう、来たるべき死への予感と同調しているとも捉えられますね。