チェーホフ「桜の園」

桜の園 (岩波文庫)

桜の園 (岩波文庫)


未来への希望と幸福への予感を諭す抒情的な青年・トロフィーモフによって、決定的な没落にも落胆することなく、アーニャはこれから待ち受ける運命に胸が弾むような期待を寄せる。彼女の素朴な可憐さは過酷な生活への退転を再出発のときめきに変えてしまう。一方でアーニャの実母であるラネーフスカヤは、「愛してい」る元夫のいるパリへと再び向かうことを悲愴に決心する。荘園を手放すことを知るまでは「パリとはもうおしまい」などと言っているのだから、夫人は一時しのぎに過ぎない現実逃避が随分と得意のようだ。
もし構成が親娘のこうした明快な対比からのみ成っているのだとしたら、読者は安心して本を閉じることができただろう。しかし、そんな陳腐な安心感で終わらせくれないのがチェーホフであり、これによって解釈はなかなか一筋縄では行かなくなっている。というのも、第二幕でアーニャに対し大風呂敷を広げたトロフィーモフは、直後の第三幕で、他ならぬラネーフスカヤ夫人に「あなたはなんのことはない潔癖の偏屈よ」と軽くあしらわれてしまうからだ。「恋愛より高いんだ」「恋愛以上ですよ」と意味不明の自画自賛を並べ立てたところで、「あなたの年になって愛人ももたないなんて」と痛恨のダメ出しをされたのだから、万年大学生で、しかもハゲのトロフィーモフは逆上するしかなかった。要するに、どこかで聞いたような詩片や威勢のいい言葉を繰り返すばかりで、彼自身も希望の担保がどこにあるかなどこれっぽちも分かっていないのである。そして注意深く読めば、アーニャにしてもトロフィーモフの賛辞をなにひとつ理解できていないことも判明する。なんとなれば、彼女は「なんていいんでしょう」と不審な感嘆をすると思いきや、急遽「今日はここがすばらしいわ!」と理解不能の陶然をかましてばかりで、彼らの会話はまるっきり成立していないのだ。アーニャがまだ親離れできずに母とべったりであることを思えば、単にこいつは自分や荘園を肯定してくれる耳触りのいい言葉を聞きたかっただけではないのかとも邪推したくなる。ちなみに言うと、思慮に欠けたこの単細胞さは、「桜の園」に影響を受けて書かれた太宰治の「斜陽」に出てくるかず子のまぬけな動物性にもつながるかもしれない。
こうして将来への明るい展望は見事に梯子を外されるわけなのであるが、そもそも常識的に考えて、荘園を競売に出された没落貴族に妥協なしの希望などあるはずがないのである。それを弁えているからこそ、夫人の兄・ガーエフは大人しく銀行員に身を沈めていくのに、ラネーフスカヤの消沈にしてもアーニャの楽観にしても、どちらも過度に偏向していて現実を冷静に直視することすらできていない。この蒙昧な取り違えをしている人間の一人として、トロフィーモフも仲間に入れることができるだろう。彼らが浅はかな感傷に浸ったり、お互いに慌しく口論している暇に、時代はどんどん移り変わっていく。にも関わらず、前時代的発想を引きずった滑稽な思い込みは20世紀初頭の荒波にもとんと気づかないままなのだ。作者がこの戯曲をコメディと銘打つゆえんであろう。