ソルジェニーツィン 「イワン・デニーソヴィチの一日」

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

生活のうちには、生活を支える生活と呼ぶべきものが常に根づいている。あるいは、理性の根には理性を動員する理性と呼ぶべきものが常に潜勢している。「砂の女」にて、仁木順平は砂穴の中での長い監禁の末、そこで生き延びていくことに滑らかに順応していく。住居が埋もれてしまわないための砂掻きというただひとつの労働は、いつしか他愛のない日常そのものとなり、巣穴での一切の生活はそれとの連関として数珠玉のように繋ぎ留められる。生活とは、諸々の活動が特定の文脈の元で羈絏され、あるいは一定のヴェクトルに統率されて初めてその容貌が与えられる。そして、それらを堅固に凝集・繋留させる接着剤が「生活を支える生活」「理性を動員する理性」という原エネルギーなのだ。
いや、この説明ではまだ分からない。では逆に考えてみよう。かつてニワハンミョウの新種を発見することに情熱を傾けていた人間は、果たして砂穴に落ち込むことで溜水装置の研究に没頭するようになるものか? または、釈放の見込みが限りなく薄い酷寒のラーゲルで過酷な強制労働をさせられている人間は、果たして今日明日の食事にありつくために機知をすばしこく働かせて器用に立ちまわる術を身につけるものだろうか? それも、いっさいの悲嘆と暗澹を見事に克服して。これを人間の適応力の悲劇と呼ぶ人がいるかもしれない。ここには自由はおろか一片の希望さえない、ところが驚くべきことに、どんな不遇にも身体は家畜のように馴致されてゆくものなのだ、と。また、こんな相対化にいたる者もいる。

砂掻きなんて不毛な労働だと思うわけであるが、しかし我々が従事している仕事に「不毛でない労働」など一つだってあるのか*1

と。しかしながら、大抵の場合、今現在の生活や労働に対して、私たちは必ずしも「こんなのは結局は不毛である」とか「たとえ無根拠だとしてもそこに希望はある」というような「不条理の哲学」の視線で大仰ぶって捉えたりはしていないということは認めなければならない。恐らく、多くの人にとってそれは惰性であり半強制であり整合であり、確かにこれは経年による適応以外の何者でもないのだが、しかしそんなものでも結構楽しんだり熱中できたりするものなのである。要するに、日常からしたらそれが不毛だろうが希望だろうが案外どうでもいいことなのであって、しかもこうした事情は「砂の女」の仁木順平にしろ、「イワン・デニーソヴィチの一日」のシューホフにしろ、ちっとも変わらないことなのだ。そして、老獪な熟練ぶりを発揮して悦に入る彼らの姿を見いだすとき、私たちは、今まさに自分たちがその生活世界として根を下ろし、感覚神経を環境と結びつかせているこれらの空間が、極寒の収容所や砂だらけのアリ地獄と交換可能であることに気づかざるを得ない。仁木やシューホフは不遇であるか。不遇とは何を指すものであるのか、今やまるで分からなくなるだろう。そして悟るのだ、冷暖房のきいた満ち足りた部屋から眺め見た地獄の収容所への恐怖とは、まだ見ぬ惑星への地球人的な偏見でしかなかったことを。奇しくも、安部公房はエッセイでこう述べている。

偏見が形成されるプロセスを分析して、その本質をとらえなければならないと思う。

ユークリッド空間では永遠に交わらない平行線も、非ユークリッド空間では自由にくっついたり離れたりする。ある思考体系からみれば二つのものが、別の思考体系からみれば一つのものになりうるのだ。*2

そこで、偏見のプロセス、ユークリッドから非ユークリッド(その逆も然り)への乗り換えを可能にさせる「それ」として、「生活を支える生活」なる変形自在の意欲がごく自然に要請されてくるのである。
とは言いつつ、私たちは明らかに砂底生活やラーゲル暮らしを望んではいない。実は、原エネルギーの方向転換には圧倒的な諦観が準備されなければならないのだ。断念とは、数々の試行錯誤と相次ぐ失敗の後にようやく訪れるものであるか、さもなくば当座から脱出の可能性が皆無であって初めて訪れるものである。注意したいのが、ここに絶望と愁嘆が闖入しないようにすることは決して不可能ではないということであろう。実際、これらの小説における人物に、諦めはあっても嘆きはないのである。いや、いつまでも未練がましくしていた結果として適応に敗残してしまう人間も幾多といることだろうが、それがあくまで「理性を動員する理性」の発達可能性としてひとつの明晰な課題が示される限り、二人の作家の開けっぴろげなポジティヴさが人物に込められていることを忘れてはならない。前者の、蹉跌に次ぐ蹉跌による窮極的な挫折の過程を描いているのが「砂の女」ならば、後者の、環境の変容への多彩な適合を描いているのが「イワン・デニーソヴィチの一日」と言えよう。どちらも「方向転換」のダイナミズムを非常なリアリティをもって伝えているがゆえに傑作である。