三島由紀夫「午後の曳航」論4理想主義者と冷笑主義者と無神論者と

9/14大幅訂正。なにがなんだか分からない。



*1
明徹な炯眼とペシミスティックな無神論、それが早熟なこの一団、特に「首領」の形容と言えよう。そんな彼らにとって、かの船乗りが自分を男らしさの極致へ追いつめてきたあの重い甘美な力を振り捨て、爛れるような“生活”にかっちりと嵌り込んで世界をいっぺんに狭くする月並な教訓を吐くさまは、身の毛もよだつ光景に映ったに違いあるまい。

この男は自分の喋るべきでない言葉を喋っている。猫撫で声で、世にも下賎な言葉を喋っている。これこそは地球の終わる日まで、決して彼の口からは洩れる筈のなかった汚れた言葉、人間が臭い巣の中でぶつぶつ呟く言葉だった。しかも現に、竜二は自分で自分を信じて、進んで引受けた父親の役割に満足して、得々と喋っている。

こうした戦慄すべき堕落は、登に一人の英雄の死と桃源郷の滅亡をはっきりと下げ渡すものであったけれども、過敏な「首領」の眼にはそれどころか、寄生虫のように神聖を蚕食しつくす大衆からは英雄さえも逃れ得ないという世界の厳粛な終末さえ暗示していたのだ。なぜなら、「世界の内的関聯」に帰依するまでもなく、それが自ずから瓦解したからである。だからこそ、彼らはありとあらゆるものが鼠の一生のように惨めたらしい“生活”を共通因数として括られてしまうのではないかと、運命論的に自分たちの共通の夢の帰結と、おぞましい未来を読むに到った――。竜二の処刑に託けられた意義とは、このように彼らの幾重もの絶望を慎重に解きほぐさないとその全容は解明できない。特に、共謀にあたっての登と「首領」のそれぞれの問題意識には大きな落差が横たわっていることを見落としてはならないのである。さて、こうした諸前提を明白に把握した上で、いよいよ小説の核心たる竜二への断罪の全体像を記述していくことにしよう。死刑判決の拠り所としては、まず第一に、空っぽの世界はたとえ暫定的にせよ鮮血で補填されねばならないという、あの仔猫の惨殺と同質の論理が共有されている。のっぺりとした均質的な馴れ合いの空間に楔を打ち込むには、霹靂の惨劇を導入して世界に調和をもたらす方策が有効であり、そしてそれしか手立てはない。しめやかな詩情までもがシニシズムによって蛆を撒かれた現代にあって、彼らはそうした反抗的な穿鑿の隙間から仄かに「華麗な諧調らしきもの」を覗くしかないのだ。それも、本来的な「華麗な諧調」がもはや失われているからである。第二に、これは田中も指摘していることであるが、ここには“自分たちの未来の姿”を死刑に処するという仮託が確かに存在するだろう。しかしながら、この表現はあくまで登と「首領」の間の現実認識の隔たりを公約数的にはぐらかす言い回しでしかない。登の傷心とは、あれほどまでの神々しさを誇っていたつややかなアンカーが、男性的な美意識に沈潜することを忘却して陸上へと抜錨されるに及び、小ぎれいな博物館に陳列されるがごとき屈辱に準拠していた。まるで重厚な抹香鯨が、軽佻浮薄にして地上的な茶番劇に自らの存在理由を見出してゆくような、そんな遣る瀬無さに身悶えしていたのである。だから、彼の希求とはただ一つ、竜二という一丁の錨、一匹の鯨を大海原へと還元させることであり、それが不可能であるならば、腐敗し異臭立ち込めるかつての偶像を爆砕し去って、優艶なるその英姿を永遠に自己の内部で保存するまでだった。ところで一方の「首領」は、竜二に宿る世界の内的関聯の光輝ある証拠を元来崇奉していたわけではない。彼にそれだけの力能があることを同意しつつ、それでも窮極的には英雄が一人も居ないこの世の終わりを見え透いていたのだ。これが大衆のシニシズムと美しい対称を成していることはすでに明らかだろう。冷笑主義者たちは、一切が信仰に値しないと確信しつつ、なお信仰の価値のないものを信仰する己の美徳に耽溺しているが、「首領」は、海や船などといった信仰に値するものがそこに確かにあることを自覚しつつ、なお信仰の陶酔に身を任すことのできない宮刑に処されているのである。それも、冷笑主義者どもの自慰によってごく少数の許しうるものまでもが尽く荒廃されていったために! …こうして、私たちは意外にも「首領」の強迫観念的な暗部を浮かび上がらせることができる。彼が「世界の虚無」に神経症的に拘るのは、他でもない、自らの不能性を無意識が防衛的に隠匿させるための「誤謬の訂正」ゆえなのだ。信じたいけれども信じられないのは自分のせいではなく、信じられないものしかない世界=「空っぽの世界」のせいでなければならぬ――。「首領」の不幸とはまったく、この用意周到な「誤謬の訂正」が精神の奥深くに鎮座していたからこそなのである。そして、そんな彼が竜二の処刑を決行する真の目的とはただ一つ、信仰に値する英雄の削除によって、この世を無神の灰燼世界へと復原させることだったのだ。世界に内在する対象を許す許さないの大まかな類別で捉えているのも、このような思考形態が沈潜していることによることが分かるだろう。

とはいえ、注意深い者ならば、この解釈に論理の躓きを指摘するかもしれない。すなわち、崇拝の対象からその光輝が零落された以上、なおも刑罰を執行する必要性はどこにも無いのではないか、という疑惑である。確かに、「“生活”に寝返った船乗りという“夢想”」とは弁解の余地がない矛盾的存在だ。だが、それは「誤謬の訂正」の成立過程をすっかり見落とした表層だけの論拠であって、「首領」にしてみれば、まさしく零落しているからこそ船乗りは死刑に処されねばならぬのだ。なぜか? 彼は、「希望や夢を語ることがなぜ自己満足的な誇示に回収されるのかの真因を察知することができなかった」。シニカルをまだ知らない童心にとってロマンとは、狂熱的に祈りを捧げるか、さもなければ鈍感に放念しているかの二者選択でしかありえず、これはそのまま“夢想”“生活”の断絶を意味していた。だから、ポーズを堪能するというシニシズム的な戯れに混じって下手に桃源郷を祈念してしまえば、うぶな性急さはたちまち自身を“生活”の虜囚の滑稽な風刺画に変容させることだろう。“夢想”の冒涜がこうした文脈から為されていることに注目すれば、「首領」の焦慮の底には、「誤謬の訂正」を貫徹させようとする情熱ではなく、自分を痛恨たる「誤謬の訂正」へと封じ込めた真犯人への煮えたぎるような憎悪がとぐろを巻いていると見なければならない。なんとなれば、彼は敬虔な宗教者なのである。涜神の真犯人・侵犯の犯罪者――夢と真理の秀麗な交配物を持ち合わせていながら、そのかけがえの無さを軽視してお座なりとおべんちゃらと、蔭口と服従への嫁入り道具にする野放図! “夢想”を蹂躙する“生活”の横柄さと結束し、“夢想”“生活”に売り渡す盲目! ――竜二こそは、シニシズムの尖兵となって空っぽの世界を造形するのに一役買った、考え得る限り最も醜い裏切り者ではないか。…かくして憂色に満ちた「首領」は、信仰の守護者たるテンプル騎士団の一人を自ら任じて造反の復讐へと赴くだろう。世界の虚無を確信していながら「世界の真理」を打ち壊す者に憤激し、“夢想”ジェスチャーに悦に入る“生活”を冷笑に付していながら“生活”に媚を売る“夢想”には怒髪天を衝くという悲哀なアンビヴァレント――。類いまれな知能と感覚の裏腹には、十三歳という年齢でファルスへの意志を奪われた者の怨恨が付き纏っている。そしてその悲しい筋違いは青二才の必死な理論化の軌跡そのものである。もちろん、「首領」のそのような破壊的にしていかにも独善的な報復思想は、登少年の可憐な、そしていくらか両極端な理想主義に相乗りする形で被覆したこともあって、とうとう表面化することはなかったけれども、童話的なある一人の船乗りの生活的な頽廃(頽廃的な生活ではなく)と、彼の処刑に託された少年たちの悲哀なまでに急進化された世界観は、まことに現代の象徴とも言うべき真実味を帯びていることが迫真の説得力をもって伝わって来よう。

このような長い道程を経て、塚崎竜二という男性的な空想に日々の収支の帳尻を合せるような腐爛の日常が食い込んでいくさま、そして、パセティックな夢の褪色による、人物たちの適応放散を私たちは知ることができた。適応放散というのはつまり、前時代的な理想主義者としての登と、無神論的な偶像崇拝シニシズムに生きる大衆化した父親、そして篤信的なニヒリストとしての「首領」という三種類の分化である。それに加えて私たちは、与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それ(=船乗りとしての馥郁たる栄光)を否定する (「動物化するポストモダン」より)、スノビズム的な竜二を一つの形態としてさらに付け加えることができよう。事実、すでに彼自身がその超越的な魅力を感じていないにも関わらず、子供たちに蠱惑的な冒険譚を白々しく語って日常に抵抗するさまは、内実に欠けた形式主義に戯れる日本的スノビズムという他ないのだ。すなわち、ここでは、よく言われるような「ニヒリズムスノビズムシニシズム」というありきたりな収斂進化説は通用しない。小説においては、純潔な詩情と父権の後景化という否応ない変化にいかに順応し、いかに生き残るかという、さながら「理想主義VSニヒリズムVSスノビズムVSシニシズム」のバトルロイヤルが再演されており、終末では登と「首領」が同盟を締結してスノッブの撲滅にあたった。理想主義者は聖性の永生のために、無信仰者は神のいない世界の復帰のために、反シニシズムとしての「父」殺しの企みが結託されたわけである。

竜二という象徴の末路によって少年たちのイズムは炙り出され、かくて、全ての段取りは取り揃えられた。あとはこれらの道具を駆使して本題に臨むまでだ。始めの方で、私は「午後の曳航」の悲劇性が「彼らの代償行為の未完全性」にあると述べた。それこそが、本批評において最終的に分析すべき課題である『「父殺し」の限界とその陥穽』なのだ。

*1:Francis Bacon「無題」(1944)