三島由紀夫「午後の曳航」論3日常は理想の夢を見る

つくづく自分が船乗りの生活のみじめさと退屈に飽きはてていることを発見していた。彼はそれを味わいつくし、もう知らない味は何一つ残されていないという確信をも持った。それ見ろ! 栄光はどこにも存在しなかった。世界中のどこにも。北半球にも南半球にも。あの船乗りたちの憧れの星、南十字星(クルセイロ・ド・スル)の空の下にも!

これを一英雄の頓挫としてその破滅宣告を裁可することは容易だろう。だが、それと同時に、世の父親が押しなべて大義」のために「死と栄光」に向って出発することを放棄したことを別枠で把捉することは、木を見て森を見ない愚鈍な営みだ。というのも、登ら少年たちの「世界の内的関聯」の存在証明であったはずの、錨の剛直さを思わせる竜二の高邁さは、流離から撤退して陸に上がるに及び、あの俗悪な父と同じく地上に栄えるありとあらゆる悪徳と汚穢へと落ちぶれるに到ったからである。その兆候がすでに少年への卑屈な迎合的な笑いで表出していたことは先に述べたが、彼が登の義父となることで男性性の淪落が完成を見ることもまたユートピアの供給能力=父性の後退を象るものとして象徴的ではなかろうか。そして、かの「ヒーロー」が茶碗みたいなつるつるした安穏な世界に取り込まれることを危惧した登少年が、ごくさりげない形で情交の盗み見を両親に知らせようとする企図によって、いよいよこの隠された二重奏が判明する。家庭へのこの鉄槌の一撃を受けて、竜二が問答無用に殴りつけていれば、まだ救済の余地はあったのかもしれない。だが、理不尽な憤怒に身を任せる暴君を陸上の生活に代入するには、かつては白鯨の咆哮のように勇壮だった彼の大義は、糜爛した日常を前にあまりにも衰弱していた。

これは彼が陸の生活で生れてはじめて強いられた決断で、海の荒々しさの記憶が、かつては嫌った彼の陸の観念に不当なやさしさをしみ渡らせ、それが竜二のほとんど本能的な流儀を阻んだ。殴ることは易しかったが、彼にはむずかしい未来が待っていた。威厳を以て愛されること。日々の困難の穏当な救助者になり、日々の収支の帳尻を合せ、……彼は女子供のわけのわからない感情のごく大まかな理解者になり、こんなとんでもない事態に際会しても、その依って来るところを的確につかまえて、決してまちがいのない教育者になり、……要するにこれを大洋の嵐みたいに扱わず、地上にはいつも微風が吹いているという風に考えなくてはいけないのだ。

それ(=冒険譚の主人公としての航海生活)を味わいつくし、もう知らない味は何一つ残されていないという確信とは、換言すれば夢想していた英雄譚への諦観に他ならない。それがどのような契機に基づいているかはこの際些末であろう。重視すべきは、この即物的にして悲観的な唯物観への転向と同期して、陸の観念に不当なやさしさが竜二の内部に密輸入されていたという事実だ。実際、上記引用のように彼の紛糾した父親像こそは、まさしく現代の薄汚く去勢された父権と瓜二つなのである。こうして、孤独な遍歴者の「栄光はどこにも存在しなかった」という空虚な達観と、「父」のうらぶれて目も当てられないこの落魄とを並置させることが可能になる。感情の崇高さや卑しさの見分けがつかず、陸の上には、本質的に重要なことは起りえないような気がしていたのはなぜか? そこが断念の末に逢着した“生活”である以上、放擲した“夢想”の波瀾とは無縁に疎隔されていたからである。現実的な判断を下そうと思えば思うほど、地上で目の前に起る事柄は、一種の幻想の色を帯びて来ていたのはなぜか? 竜二にとっての現実であった“夢想”が、かつては幻想に過ぎなかった唾棄すべき“生活”にもはや遍く腐蝕されていたからである! ――これが田中に対する反駁の証明である。
このようにして竜二という男の推移はかなりの程度描写された。では、錨を思わせる精悍な筋骨をもつこの(かつての)英雄に父性とロマンを透視していた少年たちは、その無惨な酸敗をどう処理してゆくのだろうか。次なる外堀として、かれら生硬なる少年たちの歪な拒否反応を埋めていこう。病毒に萎縮した父親をもつあどけない男児は、光輝を失ったそのしおれた背を放下せざるを得ず、見果てぬ海原が展望できる天窓を渇望する刑に処せられているのであった。だからこそ、登を始めとする少年の一団は永い退屈なホーム・ドラマを悲愴とともに敵視するわけなのであるが、実はかれらの張り裂けんばかりの痛嘆は、理想郷を夢見る視座をも含め、あらゆるものに対する徹底された峻拒から発されているのである。「首領」は、倉庫の内側のベニヤの壁に書かれた数々の楽書――「若者よ、恋をしよう!」「忘れろ、女なんかは」「いつでも夢を!」「黒い心の、黒い傷痕のブルース」「I changed green. I'm a new man.」といった感傷の断片――を「こんなものはみんな嘘っ八だ」と憤慨しながら一蹴する。“夢想”“生活”の混合を一切許さず、理想が純粋に超越的な理想として存在する限りにおいてその甘美な力を認めることを歴史的に正当な感傷と呼ぶならば、この場合「首領」は素晴らしく正当であった。一体、こうした安直な大衆小説のヴァリエーションのどこに誠実な熱情が込められているというのか。粉飾した衒い、自己陶酔に塗れた捩り。どこもかしこも白々しく空疎に感じられるのは、落書きした者が自分で自分を夢みる資格のあることを、悲しげに執拗に誇示することで、その再確認に浸っているに過ぎないからなのだ。だが、まるで悪夢から醒めた人間が思わず頬をつねるように、苛立たしい憧れがなぜそのように周到に点検されねばならなかったのか、もっと言えば、そもそも、希望や夢を語ることがなぜ自己満足的な誇示に回収されるのかの真因を察知することができなかったのは、彼の手痛い失態であった。論証を経た私たちなら、この疑問に回答することは今や容易であろう。すなわち、現代状況において希望や夢を語ることもまた他愛のない日常の営みなのである。
流行歌などを軽蔑する世の分別顔の大人たちやら、高尚なインテリやらがいくら嘲弄したところで、イノセントな感傷は一向に誇りを傷つけられず、それどころか、逆説的にその崇高さをいよいよ増していくに違いない。元来、現代以前の憧憬とは、自己言及を赦さない原則と引き換えに、いかなる悪罵にも耐える無神経さを保有してきた。コクトーの「恐るべき子供たち」では、これ見よがしの劇場のような幻想の一幕が演じられながらも(それは確かに現実から逸脱した擬態なのである)、役者たる少年少女らは「演劇のリアリズム」に熱病的にのめり込むあまり、それが他ならぬ現実・避けがたい運命だと信じて疑わない。1929年という「モダン」に生きる彼らは、滑稽な狂気に憑かれたことによる感傷に浸ることはあっても、きめ細かな情緒に浸る自分のドラマチックさに浸ることはないし、だから一連の物語が破滅的な綻びを見せようと幻想から醒まされることはない。綻びのある感傷もまた感傷の一種として、その官能的な絶頂のうちに姉弟は死んでゆくのである。もし演劇に戯れているという見当識を一度でも得るとすれば、悲劇的な運命もなにもかも「中二病」という堕落形態が取って変わってドラマの全てを台無しにしてしまうことだろう。「演劇のリアリズム」の力学では、それが演技だと気づかないで演技をする人間にとってしかリアルたりえないのだ。うって変わり、「午後の曳航」の舞台は、若者が落書きで感傷を追認し、かつての海の男がやすやすと「俺はつまらない船乗りかもしれないが」と相対化をしでかす時代である。ここでは、憧憬を構成するに際して感傷それ自体はなんら力を持っていない。「箴言に象徴された夢想に恍惚とする自分」というペーソスに陶然とするためには、楽書の言葉は「若者よ、恋をしよう!」どころか、むしろ「感傷なんぞなんの意味もない!」でも構わないわけだ。往時の「演劇のリアリズム」がリアルを喪った局面においては、たとえそれが熱狂を否定するものだとしても、「演劇の自己陶酔」は成立するに違いない。なぜならば、それが虚構に満ちた寸劇だと気づいていながら寸劇を演じるということは、もはや寸劇それ自体にではなく寸劇を演じるということに耽溺の源が蓄えられているからだ。つまり、「恐るべき子供たち」にとっては、「演劇のリアリズム」が文字通り真に迫った現実であるところに感傷を賦活させる根源があったが、「午後の曳航」の落書きにおいては、「演劇の自己陶酔」がロマンにいきり立つ自己像を寄与するところに法悦を賦活させる根源があるのである。これこそが、私たちを取り巻く「日常の営み」なのであり、無論”夢想””生活”は自覚的に混同されている(「恐るべき子供たち」ではこれが無自覚であった)。「首領」が憤怒を示すのも頷ける話だろう。彼にとって、夢見る資格の再確認はどこまでも再確認であって、取り留めもない”生活”の延長でしかない。だからこそ、上っ面だけの合言葉がパセティックな”夢想”を騙るのは明らかな越権行為なのであり、”生活””夢想”に混入する事態には讃頌そのものまで”生活”の俗悪に汚される焦燥を覚えずにはいられないのだ。「”生活”でないからこその”夢想”」「超越であるからこその理想」という不自由な準則は不滅の神性を否定神学的に神格化するあまり、感傷の誇りを地の底へ転落させる命令を彼自身に発せざるを得なかったのである。「首領」の論理から行けば、「こんなものはみんな嘘っ八だ」という弾劾は、「黒い心の、黒い傷痕のブルース」という陶酔の内実にではなく、あくまでその演技としてのポーズに向かうのが正しかった。この仄かな、しかし決定的な顛倒こそが彼の悲劇的な手抜かりに他ならず、さらには世にも絶望的な無神論のおおもとを形作っていることは後で再び述べることになるだろう。

確かに、世の分別顔の大人たちやら、高尚なインテリやらがロマンを嘲笑おうと、いかなる祈念もその地位は安泰ではあるかもしれない。「首領」の信仰にしたところで、無宗教者の狙撃は直接的には痛くも痒くもないはずであり、それこそが頑冥な信心であったはずなのだ。しかし、リアリズムの失効と自己陶酔の台頭とともに、演劇とパフォーマンスの代表選手らが、自己言及のタブーを打ち破ってしまったならばどうなるであろうか。感傷にひそむ抒情の真実を荒唐無稽の虚偽だと見切りをつける他方で、「憧憬を思い描く自分」を演出することによって全能感を所有すべくひとたび雪崩を打ってそこにたかるとすれば――? すでに十分すぎるほど明らかだろう、”夢想””生活”を峻別する血統の人間にとって、特権的だったマドロスの歌はもはや純粋な意味でマドロスの歌ではいられないのだ。”生活”の側からのこのあさましい”夢想”への殺到を、人はシニシズムと呼ぶだろう。つまり、「本当はそれが嘘であることをわきまえながら、なおそれを信じる身振りを止められない」というロマンへの歪んだ劣情によって、最も正真な意味での理想はぼろ雑巾のごとく陵辱され、その尊厳は跡形も無く崩折れるのである。かくして、純真な夢想者の絶対の自由と絶対の能力が今度こそ腐敗されるのは不可避となるだろう……! 彼ら少年たちの悲しきニヒリズムが、この救いようのない諦念に端を発していることがお分かり頂けたと思う。「首領」らにとっての真の不幸とは、ユートピアを垣間見させてくれるかつての頑強な船乗りが通俗の生活に汚染されることで南十字星の真実を諦めたからではなく、むしろ、竜二として出現した「世界の内的関聯」さえもとうとう信奉することは叶わなかったという不能性にこそあるのだ。結果的に竜二が”生活”の闖入を許し”夢想”と陳腐な和解を果たしたこともこのことと無関係ではあるまい。きらきらした、別誂えの、格別の運命なぞ、この時代には実在しない! 存在するのは、きらきらした、別誂えの、格別の運命をファッション的に楽しむそこらの並の男だけだ――! ロマンの純粋培養を目指して日常をひたすら分離することに躍起になる少年は、あまりに律儀であり不器用であり、そして理想と現実をジャグラーのごとく自在に操る時代について行けていなかった。すなわち、永遠の超越性という神話が崩壊したのを見て幻滅するあまり、永遠の存在そのものまで信じられなくなってしまったのだ。まさしく、去勢は理想郷への一途な意志にまで及んでいたのである。