チェーホフ「かもめ」

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

チェーホフの奥深さは、筋の展開の平易さに反して、しばしば謎に満ちた象徴表現が使用されるので、読み方と注意を向ける視線によって、まるで異なる解釈を次々と呼び寄せる点にある。例えば、巻末に解説を寄せている池田健太郎は、うらぶれた女優ニーナと文士トレープレフの人生に対する思想の相違が、二人の明暗を分けたと考えている。つまり、ニーナの救いは、たとえ恋に敗れ信念が失せようとも、忍耐力によって自らの使命を得たところにある。これに反して、抽象的な芸術の観念の渦に囚われ、妄想と幻影の混沌のなかをふらつくトレープレフは、信念がもてず、人生の過程を耐え忍ぶ忍耐も信じきることができずに、ピストル自殺にいたるというわけだ。この解釈では、まるで「かもめ」という戯曲が、栄光を目指してひたすら忍耐することを称揚するような、立身出世の指南書のように思えてくる。


ところが、実際に読んでみると印象はまるで異なる。当初、ニーナは恋愛劇にしか興味がなく、女優として俗世の栄誉と名声を手に入れようと目論んでいた。しかし、いざ女優業へと飛びこんだ途端に、現実という容赦ない渦のなかへと巻きこまれ、その苛酷さに一度は破滅する。彼女は、三等列車に乗り、下卑た商人連中にちやほや付きまとわれるむごい生活から抜け出る術を知らない。それでも、トレープレフの演劇の芸術性を真に理解し、喜び勇んで役を演じるすばらしい精神力を手に入れる。彼女の心象風景として取り憑いている、撃ち落とされて剥製にされたかもめはそのアイロニカルな象徴である。その一方で、トレープレフが、猟銃でかもめを撃ち落とすことを下劣な真似だと感じていたことは、注目に値する。かれは新形式の芸術を立ち上げるという志のもとにあって、破滅を経験することなく文筆家となり、それゆえに心を入れ替える機会を得ることもなかった。ニーナとは異なり、撃ち落とされなかったかもめとして空を飛び続けることができたということである。しかしそれゆえに、自分がかつて軽蔑していたような芸術の古い型へと落ちこんでゆくなか、信じる道を発見することができずに、死の破滅を迎えることになる。


かれら二人に待ち受ける結末が描いているのは、使命感かさもなくば死か、という人生戦略の対比ではない。その観点から言えば、二人の理想はともに打ち砕かれ、後戻りのきかない地点でばらばらになった夢の破片を拾い集めることしかできなくなっている。ニーナは夢見た栄光を手にすることはなく、過去の挫折を強迫観念のように抱え続けている。トレープレフは、自分の命もろとも、手が届くと思っていた新形式の芸術を永遠に葬ってしまう。かれらの結末は、剥製にされたかもめというグロテスクな表象へと溶けこんで、いつかは失われなければならぬ若者の夢想、破滅を免れることのできないみずみずしい精神というものの悲哀を強く感じさせるのである。