カフカ「城」不在の監視装置

注:不条理性はひとまず置いといて、環境管理のはたらき方を考察の主眼にしています。


城 (新潮文庫)

城 (新潮文庫)


村の人間は残らず、隠然たる絶大な権威を誇る城の行政機構にその存在を秘匿のうち登記されている。厳密このうえない無数の手順に則って役所から発せられるか、あるいは業務外にある役人が暗黙裡に要求する身分の割りあて(それがたとえ売笑婦であろうとも)が、村民に栄えある職務を与える。この隠微な契約が取り交わされることを通じて、規則の名のもとに徹頭徹尾事務的に人びとの行動は管轄され、そこに存在することを極めて巧妙かつ微妙なかたちで「赦される」。人の手を離れたところで独立に編成されたがごとくのメカニックな紀律が行政に張り巡らされているさまを蜘蛛の巣と形容するならば、城はさながら、巣の中央に鎮座する蜘蛛である。掟のひとつひとつが、そこから吐き出され、そこに仕え、そこへと輻湊する連絡路であり、しかもその総体は計り知れない。そして、権力に拝跪する証として、積極的に規矩を共有する者たちが周縁に参画することによって、このシステムは成立している。中央と周縁を取り結び中継する役目は使者・従僕・秘書といった下級役人の務めであり、これは同時に権力機関の実態を隠蔽するカーテンにもなっている。城の存在は永劫に不可視に保たれ、絶対性はついには神聖の域にまで高まり、これが体系の鞏固と民衆の不文法への遵奉をますます増強していく・・・・・・何層にもわたる役人らの周到かつ慎重なネットワークに覆われているにも関わらず、ヒエラルキーの頂点に立つ支配側がなおも光輝をまといつつ君臨を保っているのはなぜか? 桎梏の圧政と暴力によってではなく、むしろ有無を言わせぬ静謐な屹立によって人びとの自主的な統制と忠誠を可能にするものは何なのか?


住民の前には決して現前することなく、象徴を配置することでその存在をほのめかすという策略に心理的な秘密がある。彼らにとっては、掟に左袒して機構の効力に従属することが城のつくり上げる共同体に参与することの唯一の条件である。自分がシステムの一部として認証を得ていることは、幾多の不文律を我が物とし見事に内面化していることが有力な傍証のひとつとなるのだ。例えば、やむを得ず不法を犯した一家との関わりを急速に断ってゆく村人たちのあいだには、無意識的な同調圧力とともに、個人の精神に移植された城からの視線がはたらいている。彼らはなんらかの確信があってそうしたわけではなく、べつに一家を憎んでいたのでもない。城が裁可する存在権利のメルクマールが律法以外に与えられておらず、しかも全容も厳格さの度合いも判然としない状況においては、疎外への不安感から誰しもが理想的な遵法者を演じようとしないわけにはいかない。そして、城の恩赦を得た法の適用対象であるというまさにそのことによって、このアピールへの圧力は村民の内部で不断に反復されることになる。せいぜい城の控えめな象徴でしかなかった律法は、いつしか当の支配者に代わって権利の代理審問官にまで出世するのである。こうして人びとは掟の見張りを二重に内に宿らせ、絶えざる上訴に苛まれつつ自己の無罪性を証だてようとする強迫を背負わされることになる。彼らがぬかずく相手は姿見せぬ最高権力者であるクラム長官ではない。無限の抽象的な負債を負った自己を告発し、裁き、断罪せんとする他ならぬ自分自身に対してひれ伏す。したがって、要点はこうだ。城は人びとの不満を逆立ちさせることにより、それを峻烈に自己自身に向かわせ、彼らの《反感》に逆説的方向を取らせる(「道徳の系譜」)。憤懣と鬱屈は「未然に防ぐ」のではなく、権力に奉仕するよう餌付けさせるのである。ここでは、公権力は立法の隠れ蓑によっていわば偶像崇拝の祭司に変身している。不在の城を透明な鏡面としてみずからに反転された拘束力とは、ニーチェが言うように、各自の羊が僧職者の声を自意識に取り込み、自己を隈なく睥睨する監視装置とすることで果たされるのだ。

「私は苦しんでいる、それは誰かの所為に違いない」――とすべての病める羊は考える。しかし彼の牧者、禁欲主義的僧職者は、彼に向かって言う、「私の羊よ、全くその通りだ! それは誰かの所為に違いない、だがお前自らこそその誰かなのだ、それはお前自らだけの所為なのだ、――お前自らだけの所為でお前はそうなっているのだ!」

かくして、村民は分裂した自己の片側に崇高な支配者の実在を見いだすにいたる。


だが、民衆の精神を統御し、これを支障なくシステムの一部品として組み込むには、まだ十分ではない。というのも、信仰による一極支配がもっぱら各人の良心の疚しさに依存する限り、偶然的な意志の介入を免れ得ないからだ。つまり、抑圧にあえぐ民衆の憤り、支配者を打倒しみずから権威を体現せんとする力への意志は、そのまま外部に解放されてはならない。やはり第一の処方と同様に、なだめすかし、適度に慰撫し、管理統治を強化する方向へと人知れず整流してやることこそが肝要となる。なるほど、これを成し遂げるにあたって、「道徳の系譜」が述べているように、生活感情の引き下げ・機械的活動・畜群生活といった、支配階級側の霊妙な慰藉手段がいくつも潜在しているのは確かに事実である。しかしながら、不気味なまでの村民の自発的服従を解き明かす最大のものとして、城が下げ渡す村民への特赦通告に飼い馴らしの第二の秘密がある。行政は、行政に屈従し、同時にその複雑極まりない連絡網システムに応諾する者のみに権利を認可する。この取り交わしは長官・役人・下級役人・執事・秘書・連絡秘書・駐村秘書・書記・高級従僕・下僕・使者・・・といった純然たるヒエラルキーを通して為され、その底辺は村の生活にも深く食いこんでいる。序列の表象が、村民に対して城の威光をうべなわせるばかりでなく、権力の表徴者として振る舞うことを少なからず可能にさせる効能を秘めていることに注意したい。ある役人の下劣な誘いの手紙を無下にした娘は、かくたる罪責も明らかでないまま、その反抗の象徴性のみによって一家もろとも村八分にされてしまう。彼らは知っているのだ、共同体の裁き手とは城ではなく、ましてや村民でもない。委託を請け、その担い手をみずから自負するところの、示威の偶像たる規則そのものであることを。あの高貴なる城から移譲されたなんとも気持ちの良い覇権を、「空気」ひとつで合法的に発露できる言語ゲームにあることを。ここから、ひとつの仮説が導かれる。権力階層の底辺に打ちやられたこの造反の一家を除き、村にやってきた異邦人Kに対して、民衆はやたらともったいぶった、どこか冷笑と優越を含んだ余裕を崩すことがとうとうない。それは、忠実な下僕ぶりを演じることで威光を笠に着ているからではない。むしろ、支配の維持を委任された中間管理職の味を深々と噛みしめ、その快感を反芻していることの証左なのである。村民は、役職の労働の一刻一刻が約定の更新を告知することを熟知している。そして、紀律に則った職務と行動の一つひとつが権威の反復であることを強く信じてもいる。いや、というより、規範のそつのない反復こそが正当性を樹立させると言ってもいいかもしれぬ。*1


以下、ここに示した二つの洞察を要約しよう。彼らは法規を精神の内部に宿し、自己を二重に分離させて片方を被告人席に立たせている。裁判官たる暗黙の掟を崇め奉り、煩瑣な準則の日々と弾圧への恐れに汲々とする側面がこれである。もう片方は検事役で、内向されたドラスティックな自意識をもう一度顛倒させることで他罰への回路を提供する人格だ。周りの人間と示し合わせつつ、許可された特定のシーンで静かな暴力を間欠泉のように噴き上がらせ、これが一服の清涼剤(もちろん為政者から見てこれは鎮静剤でしかない)としての役割を大きく担っている。すなわち、不法を犯した序列未満の人間に対して、溜まり溜まった日常の鬱積と抑えつけられた力への意志を今こそとばかりに爆発させる側面である。このとき、人びとはひとかどの冷徹な検察官になりきることで、法と一体に融け合う至上の恍惚を味わっている。そうだ、彼らにとり法とは権威のイデア、無上の神なのである・・・・・・。こうして、城との係累を持続させる謎めいた原初の契約の全貌の一端を明らかにできた。この数奇なシステムを成り立たせるおぞましい秘訣とは、つまるところ、最高者の非現前、規則を神とする祭司政治、そして階層構造を利用した、村民一人ひとりに対する権威の分譲につきると言える。これによって住民は城の管轄に置かれるのではなく、逆にみずから城のミニチュアと化し、反復と持続が正義を生む唯一の土壌となる。小さな無数の権力者が、環境管理の視線を無数に駆動し、ついに完全無欠の畏怖と圧服が完成を見る。

*1:このとき、既存の義理がたい君臣関係はもはや意味を持たない。条項の欄外に書かれた旨によって、「市民」はそこから抜け出た極めて個人的な事情しか見えなくなっており、しかもその想像力は無味無臭のそれへとごく滑らかに誘導・懐柔されている。だが、封建社会から「市民」社会への移行をこの小説にこと寄せて述べることは、このたびの主題から大きく逸れることになるので割愛する。