エミリー・ブロンテ「嵐が丘」

嵐が丘(上) (岩波文庫)

嵐が丘(上) (岩波文庫)


平易な文章と会話文の多さから、子ども向けの小説なのだろうかと読み始めは不安に感じていましたが、上巻の後半から疾風怒濤の激情の嵐が吹き荒れるに従い、当初の見くびりが完全に見当違いであったことを認めざるを得ませんでした。常軌を逸した悪罵と憎悪の応酬は、無気力と鬱屈への抗いというより、度外れの大きさの情念と執念そのものという気がします。
複雑な現代社会にうまく適応している理性的な人間が、一貫してクールでときとして冷徹な計算高さを発揮できるのは、かれの情熱が未来への推測に多く消費されているからです。煮えたぎるバイタリティは果てしない長さの将来に薄く延ばされ、現在時への耽溺は稀釈を免れません。病的な固執は常に未来へと先送りされるのです。
ところが、「嵐が丘」の二人の主人公・ヒースクリフとキャサリンは、建設的な節度や沈着さのたぐいをまるで持ち合わせていないか、推論に基づいた判断をしようにもその能力がからっきし無いように見えます。かれらが生命に活力を引き出すのは、邪魔をされたときの押さえがたい激高か、愛する人と時間を共に過ごすときの浮き上がるような喜悦のときばかりです。キャサリンが心から愛するヒースクリフをないがしろにエドガーのもとに嫁ぐのは、目先の上流階級の生活に憧れてのことですし、嵐が丘に舞い戻ってきたヒースクリフが周到な抜け目なさを見せるのも、激越なる復讐心に駆られてのことです。手に負えないばかりにあふれ出る二人の奔放さは短絡な利己心以外から発されることはなく、その熱気が先々を見え据えた上での打算に向かうことはないわけです。
すると、先ほどの未来志向のありふれた理性主義と「嵐が丘」の恐るべき人間たちを、私たちはうまく対比することができるのではないでしょうか。屈辱的な過去への執心がヒースクリフから霧消することはなく、キャサリンへの愛惜と相まって、逆にそれを肥大させるべくいよいよ傾倒的に正対していくことを思えば、てんで気違い沙汰の狂熱ぶりは、人間の情熱が未来ではなく過去を指向しているというまさにそのことに拠ると考えるのはそれほど新奇な着想ではないでしょう。過去の想起とは、現在を参照としながら常に反復的な交互運動としてのシーンでもあります。それはさながら行きつ戻りつする振り子の様相を示しますが、これに常人の理解を超えた情熱の激流を加えれば、逃げ場のない猛り狂った横溢のあまり、振り子の糸は耐えきれずに必ずや振り切れてしまうに違いありません。一度は出奔したヒースクリフの満を持しての帰還と、怨恨の呪縛を支えきれずに錯乱に至ることは、過去に吸い寄せられる情念とその悲劇的な破滅を如実に示しています。つまり、熱情の過去への奔流が首尾よく消尽されることなく、現在時と過去のめくるめく循環の中で果てしなく純化・増殖され、ついには妄執に没頭するばかりの狂気を発散させずにはおかないのです。