続・ホメオパシーは確かに「正しい」


ホメオパシーは確かに「正しい」
http://anond.hatelabo.jp/20100925023112


はてな匿名ダイアリーでこのエントリーを投稿したのが私だったということでした。おかげさまで予想外に多くのブックマークが得られ、面白い意見をいくつか頂くことができました。しかし残念ながら、私の考えていることが皆さんに十分に伝わったとは言えないようです。そこで、ここでは、はてなブックマークのコメントに対する反論という形で改めて丁寧に問題提起をしていこうと思います。微細に説明を尽くしてしまうことは私の本意ではありませんでしたが、アフォなコメントをのさばらしておくのも居心地が悪いので。

mtfumi 結局ホメオパシー擁護だろ?

まず始めに言っておくと、私が一番の急務だと考えているのは、ホメオパシーの全面規制ではありません(もちろん一時的な解決策としては有効なのでしょうが)。それより一層重要だと見なすべきなのは、もっと下部的な部分の諸問題、特に適切な医療を自主的に選択できる主体性の構築であることは本文の最後にも記してあるはずです。科学主義を隠れ蓑にして無神経にホメオパシー批判をしているmtfumiは、正しさとはなんなのか、自分がなにを根拠にしているのか一切表明できないのでしょう。批判にただ乗りするこのような輩は全体主義をそれと気づかずに率先して協力する危険人物かと思われます。

vid 証明能力のある無しで、その人が「信じている」だけか「確認した」かで、『世界は在りようを変えない』。科学とは世界の在りようを説明する説明書。まず世界がそこにある。そして世界が正しい。これを擬似は認めない

科学的知識に対して、「正しさの担保が分からないなら、それは正しいのではなく信じているの」だと私が断言したのは、単に素朴な外在主義(「証明できなければそれは知識とは言わない」という考え方)を主張するためではありません。患者、もしくは患者の保護者が医療選択をする際、かれらが往々にして「正しさの担保」、つまり科学性から切り離された地点で判断を下さねばならないという事態は、端的に言って極めて外在論的状況だからです。この療法は安全性が高い、あの薬品の方が治りが早い、といった伝聞形式の二次情報からでは、真に確実なことは分からないままです。少なくとも、本当に無知な患者は誰の助言を受け入れれば良いのか途方に暮れてしまうでしょう。こうした混乱した局面における患者のアクチュアルな決断を理解するためには、私たちは外在主義を出発点として患者の置かれた状況を的確に想像しなければならないのです。vidの述べているような先験的客観世界の実在性などといった哲学的認識論はまったく議論の対象から外れています。vidの稚拙な反発は、ただ外在論が生理的に受けつけられないだけに過ぎません。

sauvage 経験科学的的なものによる知識を「本人が確かめていない」から信仰だ、とするのはガラガラポン過ぎて相対主義になるからNGでしょ。そうすると殆どの「社会的な事柄」を扱えなくなる。人文系蛸壺の入口。

経験の浅い子供は、ときとして「重い物は水に沈み、軽い物は浮く」「太陽は地球の周りを回っている」という誤った知識を抱いているかもしれません。そうした思い違いは観察や実験によって訂正されるかもしれませんが、そのような形で認識を正すことは現実的にまず不可能でしょう。これは患者が自ら統計や論文にあたって治療法を吟味することが実質的に困難であることと類比的です。「西洋医学は正しい=信頼できる」という私たちの理解において、その拠り所となっている大部分は、「今まで西洋医学のお世話になり、安全に暮らしてきた」という生活実感に他ならないことは異論をまちません。逆に言うと、もし東洋医学が圧倒的に一般的な社会で育ってきたのであれば、「西洋医学は信用できない」という疑心を覚えるのはそれほど不自然なことではないのです。つまり、相対的で不安定な立場に陥っているのは実は当事者であり、私たち一般大衆であるということです。sauvageの軽口は、相対主義の対象が選択肢としての医療全般だけであるという軽率な無理解を示しています。相対主義を前提として適用させなければならないのは、選択を行う人間の方なのです。私たちはその上で「社会的な事柄」にもまた積極的に対処していくべきなのではないですか?

uchya_x 19世紀の時点で足を止めてしまった科学的仮設を生き永らえさえようとして、現代の科学にネガキャン仕掛けてるわけよ。この構図を見ないで同列に扱うのは駄目だって

「たとえホメオパシー支持者が科学的思考の持ち主でないとしても、ホメオパシーという体系それ自体が非科学的であることを決して意味しはしない」と私は言ったはずです。ホメオパシー支持者の不純な動機を理由にホメオパシーを否定するのなら、古今の科学者の宗教・信条を精査することで既存科学を一から鑑みる必要性がありそうですが、uchya_xに果たしてその覚悟はあるのでしょうか。愚にもつかぬ独りよがりに落ち込んで科学の「構図」を見ることができないでいるのは、どうやら視野狭窄なuchya_xの方のようです。

Midas 鑑賞者を論じろ←その通りだけどムリだろ。利用者はしばしば医療から見放された藁にも縋る人達だったりする。彼らを直接批判したり実際に藁を取り上げる事がタブーだから余計ヒステリックに考案者を糾弾してんでしょ

患者の決断がたとえ無知と偏見に満ちた過誤であろうとも、それが決断であるからこそ偏重するという思考はまったく理解できません。医療選択においてある程度常識をわきまえた人間が、「医療から見放された」からといってホメオパシーに「藁にも縋る」思いになるということはまず考えられないことです。そのような患者は、選択に際して十分な情報が与えられていないと見なすべきであり、科学的に正当性の高い医学が他に存在することを強く諭すことさえも「タブー」であるならば、それはMidasの私的な個人主義に基づくものです。自分さえ良ければいいMidasは、介入を「タブー」視していつまでも傍観していようとも、誰からも迷惑を被らないからそれでいいでしょう。しかし、「社会的な事柄」は公的な問題であるからこそ、私的な領域を横断する強制性が発生せざるを得ないのです。「利用者」が「医療から見放された藁にも縋る人」であったとして、私たちが俎上に乗せるべきなのは、ホメオパシーに救いを求めてしまうかれらの蒙昧さなのであり、そうした不幸をことさらに見過ごすことは偽善以外の何者でもありません。「鑑賞者を論じ」ることが「ムリ」だとあっさり断言して投げやりにしてしまうことは、患者たちの切実な困惑を一切省みずに放置することと変わりありません。それが茨の道であることを承知の上で、私たちはなお「鑑賞者を論じ」なけねばならないのです。


さて、このように反論を繰り返すことで私の意見が少しばかり明瞭になったでしょうか。しかし、こうした帰結は本来、前回の文章を読んで各々の読者が引き出す解釈のひとつとしてあるはずであって、ここで強調したいことは、あくまで患者の置かれた複雑な状況に定位した議論の重要性を訴えることに過ぎません。このことを踏まえたうえで、「私の」考える対処案を仮に示してみましょう。概観してみると、一貫して肝要なのは、すべての患者に十分な判断能力を与えることであり、それはすなわち、選択肢それぞれに関する客観的な情報を分け隔てなく啓蒙すること、そして医療をめぐる生活実感に対して自発的に疑いを持てるように仕向けることであると思われます。なぜか? それは、外在主義が不断の転覆可能性によってしか信頼性を保てないからに他なりません。平たく言うと、限られた情報の中で複数の選択肢からただ一つを選ぶしかない条件下では、それだけが唯一正しいと断定的に思い込んでしまうと、情報の重要性の認識や情報を公正に扱うことが疎かになってしまうのです。ホメオパシーを支持する利用者が出ないようにホメオパシーを弾圧しなければならないとすれば、「空飛ぶスパゲッティモンスター式医学」だの「ブーツストラップ素粒子療法」だのが出現するたびに規制を実施しなければならないことになります。そんなことでは患者の自律的な医療選択はいつまでたっても不可能であるばかりか、主体性の要請が否定され、陶冶が回避されたままです。患者が迷妄から抜け出ることができないでいては、規制になんの根本的意義もないのです。これが、外在から決断へと推移する患者の心理状況を見極めることが必須である所以です。では、最後に皆さんにもう一度尋ねるとしましょう。


「治療に関して、被治療者にはいかなる治療を受けるか選択できる権利がある。このことをしっかり認めた上で、ホメオパシーに傾倒する被治療者を理性的に説得することは、果たして可能なのだろうか。」