「カフカ寓話集」ブランコ的無限地獄

10/12加筆。「やる気のない感想」改め、「ブランコ的無限地獄」に昇格。


カフカ寓話集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)

巣穴内の事情が一変した。これまで危険な場所であったところが平安の場となり、いっぽう安全の砦が世の雑音と危険の場に引きこまれた。いや、以前よりもっと悪い。ここにしても平安の場であるわけがなく、実際は何一つとして変わっていない。
(「巣穴」)

彼女の歌に耳を傾けるという事実がすなわち、その歌を認めない証明であるという意見もあるが、ねがわくはヨゼフィーネがその種の声から守られてあることを。彼女もそれを知らないわけではなく、だからこそわれわれが彼女の歌に耳を傾けていることを、やっきになって否定するのではあるまいか。
(「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」)

カフカといえば実存的不安の小説家というイメージが強い。いや、それは間違ってはいないのだろうが、靄を掴むようなそうした空漠とした印象に今ひとつ手を加えるならば、彼の小説には、当て所もなくなにかを「待つ」という「顛倒」した状況が共通の予感として描かれていると言えるかもしれない。このモチーフの「待機」という側面が明快な形で表れてくるのが、「城」であり「掟の門」であり、そして本書冒頭に収められた「皇帝の使者」であるが、それが自己疎外的な「顛倒」へと連絡していくのが、上で引用した「巣穴」と「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」であろう。前者では野外と住居(あるいは住居と身体)、後者では大衆の口にするチュウチュウ言葉と、特権化された(ものでありたいと本人が希うところの)歌姫の詠唱がそれぞれ取り違えられて、熱気のこもったその誤謬は誤謬であるがゆえについに焦燥は解決されない。不安のうねりに自らを追い込んで、最後には遠い彼方の消失点に消失してしまう、各小説の末尾からはそんな物悲しい余韻が伝わってくる。では、いかにして「待機」が「顛倒」へと接続されるのかというと、その繋留地点にはまさしく「断食芸人」が位置するように思われる。

「自分に合った食べものを見つけることができなかった、もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」
(「断食芸人」)

断食の理由への回答として、これはトートロジーだろうか? もしそうだとしても、ここに揶揄されたある種の静謐な完璧主義から、王座に据えられた「待機」への倨傲じみた固執を読み取ることは難しくないだろう。「城」では伯爵の館が視線の先に常に望まれ、「皇帝の使者」では使者の告げる栄光の伝言がいつまでも先送りにされる。いずれも手の届かない高貴に距離をおいて睥睨されていることに私たちは気づかなければならない。門を開いた先には必ずや権威が出迎えてくれる――「待つ」動機には、そうした傲岸な予感が底流にあり、それが判別のつきがたい錯覚を生み出している。だからこの頑冥な期待は徴候や予兆とはまるで無縁であり、そしてそれゆえに、傍証に基づいた確信ではなく「待ち」続ける寄る辺のない決意こそが人を「顛倒」=転落させる。つまり、ここでは「待つ」ことそれ自体が「顛倒」なのに付け加えて、一方が他方を呼び込む円環構造さえ透視できよう。カフカの小説に流れる独得のせつなさとは、このような控えめな思い上がりが螺旋状に無限の地下へと連れ去られ、ついには全てが手遅れな挫折に不可避的に逢着することと無関係ではないかもしれない。小説内において、救いようのないこの往復は、あまりに「非人間的な」恐怖極まる空中ブランコの表象をとっている。

ひらりとブランコにとびのって、大きくこいでから跳びうつる。二人でぶら下げっこをしたり、一人がもう一人の髪を口にくわえてたりしておりましてね。
「これだって人間の自由ってやつだ」
こう私は思ったのです。
いい気なもんだ」
(「ある学会報告」)

「両手に止まり木が一本だけだなんて――どうやって生きろというの!」
(「最初の悩み」)

絶望的な行きつ戻りつの運動とは、現代人の戯画であると同時に、うらびれた人間の自由のカリカチュアでもある。どういうことかというと、「人間はあまりにしばしば自由に幻惑されてはいないでしょうか。(「ある学会報告」)」と元・猿の人間が言うように、「人間的な」自由それ自体がすでに見当違いの「顛倒」なのだ。したがって、使い古された自由はからっきし効力を持たないからには、今や「出口」からの逃避が主眼になるだろう。つまり、終わりのない円環、無限地獄のブランコからの脱出である。
私の稚拙な考察はこれくらいにしてあとは筆を置こう。ここでさらに時間を費やしたからといって現状の教養で小説の真相に肉薄できるとはとても思えないし、無理にそうする必要もない。小説と戯れつつ、一歩一歩近づいていけば今はそれでいいのだ。


なお、「出口」の意味するところについて掘り下げた考察は、以下の小論文が参考になるだろう。私の書く文章とちがって明晰に丁寧に解説してある。カフカにおける逃走線はどのように引かれ、そしてどのような地平へと結びつくのか。こうしたドゥルーズ的な観点からも多く得られるにちがいない。


「出口」・「演技」・「書くこと」 / 江口陽子
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/30595/1/WasedaBlatter_01_00_006_EGUCHI.pdf