「シーシュポスの神話」を読解する3

ヤスパースは自己の無力を告白し、自己の存在と超越者を求める努力は究極的に挫折を経験すると考えた。私たちはついに世界の「本当のこと」=世界の究極的真理を知ることはできず、自らの絶対的限界を思い知ることになるというのである。なるほどこれは納得できることだ。物質は原子からでき、原子はクォークからできているとするならば、クォークは何からできているのだ? 現代物理学のひも理論やM理論は「ひも」と答えるだろう。ではその「ひも」は何からできているのだ? …結局、世界の本質への追及はきりがなく、認識に到達地点は有り得ない。それは取りも直さず、人間が有限的であることの何よりの証拠であろう。真理というものが実在するかどうかはともかくとして、人間が真理に接触することはできないとヤスパースは断言したのである。では、この前提を元に彼が展開する持論とはどのようなものだろうか。言い換えれば、人間と世界が真っ向から対峙するには如何なる手段が残されているのだろうか。これに関しては私の浅学ゆえに論理の道筋を詳らかにすることはできないが、指針を示した総括としての結論ならばWikipediaで知ることはできる。それによると、こうである。

<限界状況>により自己存在の有限性は意識させられたが、それはまだ消極的な有限性の意識であり、「無制約的なもの」という超越的存在に面することにより自らの有限的な存在が反省させられ、そのような超越的存在に面している自己自身という存在確信が得られるのである。

つまり、認識の彼岸に辿り着く意図の頓挫は本質的な有限性を意味しないので、超越的存在に触れ合うことで私という人間が存在することを確信できるのだという。これはちょっと理解しがたいが、著書にはもう少しくだけた表現が載っているらしく、カミュはそれを引用している。

こうした挫折こそは、可能なあらゆる説明とあらゆる解釈を超えて、虚無ではなく、超越の存在を示すものではないか(p.61)

ここでは超越者と、それについての経験の存在と、生の超人間的な意義(p.61)とを、いきなり肯定している。それも挫折の極致を味わうことによって――? カミュならずとも、これには頸を傾げたくもなる。というのも、知見に到る筋道がすっぽりと抜け落ちてしまっているからだ。意地の悪い人間ならば、ヤスパースの思考をこう揶揄してみたくもなるのではないか。つまり、ある数学の問題が解けなかった学生が、「こんな問題できなくともいいのだ、問題が解けないという限りにおいて、私は解答を超えた高尚さを保つのだ」(どこの中二病患者だ)と価値逆転をすることで合理化を行うそれである。これはちょっと語弊があるだろうが、理想を実現すべく理想の対極を突っ走るという転倒は、彼の哲学が熱心に理性の予断を破壊しようとかかることで世界をそれだけ徹底的に説明するつもりがあるからだ(p.62)とするカミュの推理と根源的には同一である。問題が解けなければ解けないほど満足な気分になる(とする価値観)のと同じように、ヤスパースにとっては、超越者経験が実感不可能なものであればあるほど超越者は現実的なものとなるのだろう。これは曲解でも難癖でもなく、「真理の発見が無理ならば超越存在に出会える」という飛躍した論理がもたらす当然の帰結である。また、開き直ると同時に不条理がたちまち雲散霧消してしまってることにも注意されたい。問題が解けないならそれでいいんじゃね? という考えでは人は解こうと努力しない。同様に、超越的存在の是認を下心に抱いて統一の挫折を謳う哲学には、真理に到達しようとする企図ゆえの不条理も湧き上がっては来ないのである。
 ヤスパースの実存哲学は、価値の転倒を招く論理の飛躍が問題であった。これでは可能な限りの論理的な目線で不条理をしっかと見据えるというカミュの指針に則していない。規則に違反しているのだ。では次にシェストフについて見て行こう。彼は、当時のロシアの歴史的状況を色濃く反映した虚無的な人生観を以て合理主義を批判した、「不安の哲学」者である。

唯一の突破口は、まさしく、人間の判断するかぎり突破口など存在しない所にある。そうでなけければ、どうしてわれわれは神を必要としよう。(p.63)

カミュに言わせると、これが彼の哲学の要約である。人間は絶対的真理を知覚しえないとする立場をとっており、世界との整合性は神の信仰によって取り戻されると説いた。「苦しいときの神頼み」という言葉が、不可能事ににじり寄るがために神を信奉する状況を的確に言い表しているように思われる。つまり、人間が持ち前の能力のみであらゆる目的を可能たらしめるならば、始めから神などいなかったはずなのだ。不可能事とはまさに神の存在証明そのものであり、それを成し遂げようとする人間の意欲は、神へ向かうことを十全に正当化すると、こういうわけである。だから、シェストフは理性の万能に夢見たりせず、人間がその限界性ゆえに神へと向かう状況を肯定する。そこに希望があり、ひとの可能性があるのだ。では、かなたの彼岸に接触を試みるときに必ずぶち当たる、いかなる人間存在にもひそむ根源的不条理性((p.63)はどのように認識されているのだろうか。

かれはけっして「ここに不条理がある」とは言わず、「ここに神がある。たとえ神がわれわれの理性的範疇のいかなるものにも合致しなくとも、なお、神に身を委ねるのがいいことなのだ」と語る(p.63)

つまり、不条理こそが神そのものであり、神を崇拝する一つの契機なのだという。なぜならば、悪意に満ちた、憎悪すべきもの、不可解で矛盾だらけのもの((p.63)である限りにおいて、不条理はまったくもって人間の手に負えないからだ。それは取りも直さず理性の領域外に屹立する超越を示唆し、かくしてこの非合理的存在は神格化される。これは懊悩から無限の希望を迸り出させ(p.64)る手立てとしては優れたものであろう。だが、カミュに言わせればこれもまた飛躍(p.64)なのだ。シェストフがこの思想を用いて、道徳や理性と対立するこの不条理を真実と呼び、贖いと名づけるとき、彼は確かに不条理に賛意を示している。問題なのは、それと同時に大前提たる苦悶の源をあっさり消滅させていることである。不安に悶えているときに神を拠り所とすることで、私たちの苦しみは一時的にであれ軽減されることだろう。しかし、それは不安が生み出す苦痛を取り除く処方ではあるにしても、不安を生み出す情況を解決するものではない。神社を参拝することで受験への憂慮に取り憑かれた心に勇気を取り戻すということは、実際には勉強して合格可能性を高めるという実践行為からの逃避と同値である。シェストフの論理もこれと同じで、不条理という塗炭の苦しみを人間の手には届かない永遠へと反転させることで、いつの間にか不条理と暗闘する人間の実際的行為が忘却されてしまっているのだ。「シーシュポスの神話」において、不条理とは世界と人間との対立、分裂、背反としての闘争の火花であり、それこそが議論の絶対的条件であったことを思い起こして欲しい。ところがここでは、不条理の観念が永遠へと跳躍するための踏切台に変るやいなや(p.65)、不条理は既に人間の所有物と成り果てている。それだけに留まらず、世界に到達することを不可能事と決めつけて、非合理を称賛することで世界を超越の彼方へとおしやる彼の理屈は、まさに、一方の項だけに全部の重みをかけ、均衡を破壊してしまう(p.66)暴挙でしかない。理性には理性の領域が、理性が有効である領域がある(p.67)以上、不条理の発見が非合理的なものの優位を意味はしないのだ。であるから、私たちはやはりシェストフのような希望の入り込む余地などない(p.68)=神を信奉するしかないという諦観に逃げ込むわけにはいかない。
 次に、実存哲学の先駆け・キルケゴールの思想はどうであろうか。彼はヤスパースともシェストフとも異なり、不条理とのひたむきな取っ組み合いを「一度は」覚悟した。世界と人間とのあの仮借ない膠着状態に「一度」は腹をくくったのである。では、果たして冷徹な論理を以て孤独で沈痛な闘争を忍耐強く継続できたのか。すなわち、世界の不合理と、不条理に反抗する郷愁とのあいだに、かれは均衡を維持し(p.70)えたか。私たちはそれをつぶさに検証していかねばならないであろう。結論から言うと、暴風吹き荒れる不条理との戦闘に彼はあっけなく敗れ去ることになるのだが、そこに到る論理がかなり厄介なので順を追って見て行くことにしよう。
 何者をも押しつぶし捻りつぶすような圧倒的絶望の最中にあって、その測り知れない理不尽に耐えきることのできなかった人間はどのような適応機制を働かせるだろうか。その答えは既に先ほど出ている。すなわち、自己の有限性を意識したときのヤスパースのような、価値顛倒による回避行動である。キルケゴールは不条理との睨み合いから脱出することは叶わないと確信しつつも、いやだからこそ、一方では寄る辺無い寂寥感から、人生の意義と深さについてかれを絶望の淵へと追いこんだまさにその当のものを、真実と光明(p.69)に置換するに至るのだ。そして、この苦肉の発想に到りつくまでの、魂がほとんど求めてみずからを不具にしてゆく(p.71)一過程を私たちはこれから垣間見るであろう。

キリスト者にとっては、死はけっしていっさいの終末ではない、生が――たとえどれほど健康と力とにみちあふれた生であれ――われわれにもたらす希望よりも無限に多くの希望を死は含んでいるのである。(p.72)

この言説には少々解釈が要する。繰り返しWikipediaからの引用になって恐縮だが、彼は現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。ここでの<死>とは、肉体的ではなく精神的なものを指すと考えられる。であるから、そのまま「絶望」なり「無気力」なり、内的に不健全な状態を指すなんらかの名詞に置き換えても支障はないだろう。とすると、彼の持論は次のようなものになる。絶望とは人間が手を持て余す絶対的存在であり、何者もそれに立ち向かうことはできない。この怖ろしいまでの抑圧から離脱するには唯一、神によって解放されることでしか道は無く、そしてその救済のもたらす希望の素晴らしさは、絶望を一片も持たない輝かしい生をさえ遥かに上回る。ゆえに、より良く生きるための処方とは、絶望を抱え込みながら神の到来を待ち受けるという精神態度を有すことに要訳される…。不条理と面前するにあたって、絶望感のあまり価値の逆転をせざるを得なかったキルケゴールの苦悩が手に取るように分かるだろう。彼は、自分が敗北者であることを百も承知でなお勝利者宣言を敢行するのである。つまり、みずからの挫折のなかに、信仰をもつ者は、みずからの勝利を見いだす(p.70)。不条理との対峙に打ちひしがれた結果は、とどのつまり「絶望、すなわち、希望」という嘯きであったのだ。カミュはこれを、人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ(p.72)と半ば嘲笑を以て形容する。「絶望が超越的であるから神が救ってくれるのだ」などという思考に、論理的確実性も経験的蓋然性もいささかもない(p.72)。それどころか、キリスト教への帰依の中で「知性の犠牲」を唯一の真実な態度であると見なすのは、少なくとも理性の相対的な力は認めている私たちからすれば、説得力としても論理としても既に尺度を超えている(p.72)のだ。
 最後のとどめとして、カミュは、キルケゴールの主張する、「絶望=罪=キリスト教的=神との結び付き」と繋がる定式を敢えて曲解することにより、罪とはひとを神から遠ざけるものなのだ(p.73)と断言する。ここに彼の無神論的立場が凝縮されているのを見逃してはならない。畢竟、不条理、それは神のない罪(p.73)なのだ。