「シーシュポスの神話」を読解する11

4/12加筆・修正

もし神がないならば、その時ぼくが神なのだ

ぼくの我意のもっとも完全なものは、ほかでもない、自分で自分を殺すことにある

俺は、自分がだれにも左右されないということと、新しい身の毛もよだつような俺の自由とをはっきりと示すために自殺をしてやる

キリーロフはこのように、神が存在しなければ自殺をしなければならぬという不吉にして不可解な宣言を発する。そこに見られる奇妙な人神思想は一見、論理としてまともに成立していない。いずれとも命題の前後にあまりにも大きな隔たりが介在しており、これが飛躍以外の何者でもないように映るからである。だが、そもそも、キリーロフにとっての神とはいかなるものなのか。私たちが一般的に想定するような、全宇宙を支配し、あらゆる事象を予定調和へと組み込むあの支配権力のことで合っていたのか。或いはもっと別の何かを密かに示唆していて、その領野で初めてかれの論理が思いもよらぬ必然性を帯びるのではないか。この保留作業に着眼を置くことで、説明への誘惑による没我と、一貫された冷徹さによる中庸の道の分岐点をこれから吟味してゆこう。対比項として、まずは勝田吉太郎の著書「ドストエフスキー」における記述を援用する。大家を批判の槍玉に挙げるのは気が引けるが、説明への誘惑に抗することがそれだけ困難であり、また価値のあるものなのだということを分かってもらいたい。

彼(=キリーロフ)はいまや、彼独自の無神論に到達して、自分自身に対してのみならず、全人類のために神からの人間の独立と最高の自由を確保しようとする。もしも神があるならば、すべては神の意志の支配下にあり、神の意志から人間は一歩も出られない。そこでキリーロフは、人類のために神を征服しようと試みる。人間はいまやすべての虚偽と迷妄の根本である神の観念を打破し、これまで人間を支配してきた宗教的・倫理的隷従の枷を投げすてなければならない。

これによれば、キリーロフの思考の立脚地点とは「神からの自立」になる。それまでは神に屈従していたのが、主体性を回復させようと創造主に楯突くことである。この思考過程はむしろありふれた凡俗な無神論だ。つまり、人間と支配神を対立させた始めの構図から、神を全否定することで人間を絶対神の地位に逆転させてしまうのが特色だが、神一辺倒を人間一辺倒にすげ替えただけで実質はほとんど変わりないのである。神の超越した能力には懐疑の目を向ける一方で、担保すら得られていない人間の主体性は無批判でありがたがるのだから、ご都合主義もいいところなのだ。だが、私が論難する対象は、勝田が解釈したキリーロフの思想ではなく、勝田の解釈そのものにある。いったいどうして、「もし神がないならば、その時ぼくが神なのだ」という言葉からお粗末な人間主義が引き出されるのだろうか? この言葉から分かる通り、キリーロフは決して神を否定してはいない。逆に、神が絶対的存在であることを暗に表明していることから、通俗の無神論とは真っ向から対立する考えであり、ここで早くも勝田の浅薄な解釈が垣間見える。以下、キリーロフの思想をその発言に則って検討してゆく過程で、勝田の誤謬と思考の傾斜が炙り出されることだろう。まず、自分が神であるなら最高次の意味において自由であり、そして最高次の自由こそが自殺であるという言は、そのまま裏返しに認識するならば、もし自分が神でないならば、自由が(ある程度)制限されている=自殺は不可能であるということになる。これはいいだろう。次に、「神がいるか、私が神か」という二者択一性を鑑みれば、超越神の存在がかれに自殺をさせないはずだというキリーロフの思弁も見えてくる。すなわち、キリーロフが神でないならば、かれは神の意志の支配下にあるので十全に自由ではないのであり、かつ、かれが十全に自由でないことを自分で把握するならば、かれは神の存在を確信するのである。一方でキリーロフが神であるならば、十全に自由=自殺が遂行可能であり、かつ十全に自由=自殺ができるのならば、かれ自身が紛れもなく神であることになる。勘違いしやすいのだが、かれは自由の認識いかんによって神になったり、神を造出したりすることはない。というのも、神とは時間や空間に影響を受けることのない普遍的な超越存在であるがゆえに神なのであり、それは決して生成や消滅を経る可変的なものではないからだ。ややこしいだろうか。いや、述べていることはごく単純である。要するに、分岐を指示するのはかれが自殺遂行可能かどうかということだけだ。可能であれば外部の意志が介入していないことになるので原始から神はいなく、かれこそが神であったという世界を証拠づけることになり、不可能であればかれを支配するものとしての絶対神が原始から存在し、かれが神ではなく隷属者である世界が証拠づけられる。このように、キリーロフの思想において、当初からいずれかが真でありいずれかが偽なのは既に規定事項なのであって、自殺するか否かという行為それ自体が世界の在り方を事後的に決定づけるのではないということが非常に重要な分節点となる。だが勝田はこの特殊設定に気づくことなく、キリーロフが完全な独立と自由=自殺能力を勝ち取らない限り、かれは神の意志の支配下にあるのだと主張する。こうした説明は、思想の底流に流れる一貫した原理に気づかなかったゆえの誤謬でしかない。キリーロフが神を征服しようと企図する文脈では、かれにとって、世界には支配神が既存していることになってしまう。無神論を掲げ、おのれこそが神であるとする人神思想を嘯く者が実はその裏で神を前提とし、認識の原初に人間と神を対立させているというのは荒唐無稽な自家撞着ではないか。さらに、この屈折した論理を推し進めて、神を否定するためにキリーロフは実際に行動=自殺しなければならないという勝手な準則を持ち出してしまっている。なぜそうなるのかというと、勝田にとってのキリーロフとは、神に対する人間の優越は認めるものの神が存在することに対しては疑いさえ持たない単純な有神論者に化しているからだ。この地平にいつまでも拘束されている勝田には、キリーロフの唱える神のいない世界や、たとえ行動を起こさなくとも神の意志は自己に働いていないという当然の事実が見えていないのである。さて、キリーロフによると、かれが自殺をすることは造物主の非存在と同値なのだった。しかし、先ほども言ったように行為のするしないは、神性がどちらにあるかという疑問とは全くの別問題である。自殺をしなくとも、能力的に自殺ができるならかれが神だし、やはり自殺しなくとも、能力的にできないならばかれは神ではない。すなわち、自殺しなくとも、かれが神である可能性は十分に残されており、その意味では自殺をしないことが神の意志の証明にはなりえないのだ。要するに、たとえ自殺しなくともキリーロフが神であることは可能だし、むしろ自殺の絶対不可能性が提示されない範囲内では、かれが神でないということは未来永劫証明され得ないということになる。そんなわけで、キリーロフは生きながらにして自分が(可能的に)神であることを高らかに嘯くことができる。それも、自殺をする高度な自由がかれにはまだ残されているからだ。こうして、論理を逆順することでキリーロフにとっての神の本質が見えてきた。かれは決定的行為たる自殺を至高に据えることで、絶対神を決して思考の条件にすることはしない。行動の不可能性がはっきりと顕現しない地平では神の存在非存在はまったく不可知であるし、そもそもこの錯綜状態で問いかけることはほとんど意義がないからだ。究極の挫折がキリーロフに対して突き出されるまで神の意志というものが果たしてあるのかどうかは不明だが、その代わり、自分が神であるという公算も決して潰されることはないのであり、自分が実は神の意志の支配下から逃れており、他でもないおのれが神だったのだというキリーロフの宣言はこの限りで正当化される。究竟、自殺こそが真の自由であるという境地においては、行動それ自体の可否そのものはもはや宣言を検証する材料にはなりえず、行動可能性こそが万物の尺度であり神としての指標になると言わなければならない。いや、行動不可能性の未証明を盾にするキリーロフの思想の特質上、そうならざるを得ないのである。この証左としてかれの次の言を挙げよう。

俺は三年の年月をかけて、自分の考える神性の属性がなにかをたずね求めたが、それは独立性ということなんだ。

この発言が露見させるように、神になるとは、たんに、この地上で自由であるということ、不滅の存在に仕えないということ、それだけのことにすぎないことが示されたわけだが、既にその帰結は導出されていたのだから私たちが驚くはずもない。独立性と自由性は同義であり、自由性とは取りも直さず行動可能性であることも思い起こせば、キリーロフにとり神性とは可能性であり、行動の束をその手に握り締めることに他ならない。むろん、自殺をしない限りは神であることは証明されないにしても、未実行の現在状態でひたすら態度を保留し続けるかれの姿勢においては、神がどちらであろうと、もはやかれには関心を引く興味の対象にはなりえない。なぜか?行動に対する私たちの日常感覚がその理由を最もよく知っているではないか。これまで検証してきた通り、私たちの眼前には、いっさいが許されているという行動自由性の草原が広々と待ち受けている。この広野では、読書をすることも勉学に励むことも絵を描くこともできる。思い立てば歩くことも走ることもできるし手を動かして文章を書くこともできる。好きな歌を歌うことも独り言をぶつぶつ言うことも言葉にならぬ叫び声を上げることもできる。ペンを頚動脈にぶっ刺すこともできればベランダから飛び降りることもできる。私たちはいつも未来の行為の束としての可能性をその全身で感じ取り、毎秒毎秒の行為を自分で選び取りながら日常を生きているのだ。低俗な決定論者に限って、「だが実際に選択出できる行為は常にただひとつであり、可能性の束は現実では幻影として即座に消え去ってゆくではないか、私たちは自由ではない」と悦に入る。そうだ、宿命論者は自己の行動を全て当為や不可避、そして神の意志という名の必然としてしか感取できない精神の奴隷者であり、その点でかれは確かに自由ではなかったのだ。しかし、刑場へと向けて開かれた牢獄の門をまえにしたときの死刑囚の、あの神のような自由な行動可能性をまなざしの先に看取してその全身で感じ取る者には、可能性を束縛するいかなる外部の意志の力も働いていない。つまり、混沌とした行動可能性の集合体には、どれひとつとして神の意志としての強制力など微塵も機能していないのであり、キリーロフは自殺せずとも、自分が神であるという世界を行動のひとつひとつに見いだし、そしてそのことを確信してゆく。かれにとって神の所在とは、山や谷に向かって叫んだあとに返ってくるやまびこと同じく、行為の残滓・余燼・残響である。焦点は絶えず行動可能性にあるのであり、その是非は神の居場所を照らし出すことではあるにしても、従属的であろうと自由であろうと可能性への充溢した感覚自体には関わりのないことなのだ。かくしてキリーロフは世界を説明で覆いつくそうという野望から超然することに完璧に成功する。なぜならば、かれの思想とは、神がいるか、それともかれが神であるかの二者択一にではなく、自己の全き自由性の手ざわりを知覚して満足げにうなずくことに眼目があるからだ。そしてこうした幸福の体感を頼りにかれは飄々と神を僭称するし、また何者もそれを否定することは叶わない。まとめると、かれの無神論は「神の意志の支配」と対決を通して絶対神を征服せんといきり立つことをしないのだ。神がいようといまいと、活動領域は全き自由に護られており、それは豊潤な行動可能性への感知によって十全に保証されている。行動を強制されていないから神はおらず、ゆえに神を名乗る。それだけなのである。
 では、この形而上学的犯罪だけで人間の完成ができるのなら、キリーロフはなぜそれにさらに自殺を付け加えねばならないのか。この疑問に対して、「現実の自殺」ではなく「自殺の可能性」に甘んじることは神性の絶対的な証明になりえないから、神の否定を裏返しにした頼りなげな人間賛歌ゆえにこそ死ななければならなかったというデタラメな解答を行うのはまたしても勝田のアホである。

「すべてが神の意志である」という摂理主義の宿命論を、彼は承服できず、したがって我意の専制の途を――つまり完全な非決定論を採ったのである。彼の破滅は、そこにあったのだ。キリーロフの不幸は、神の宗教的理念と人間の倫理的自由と自主性とが並存しうる途を見出しえず、神的意志の観念と人間の自由な意志とを和解しえなかったことにある。この間題は、いうまでもなく、哲学的には自由と必然性の間題にほかならない。キリーロフは、自由と必然性とを、和解しうるような解決法を求めえなかった。彼は我意の自由の途を最後まで徹底し、そこで「新しい恐るべき自由」の深淵に逢着して破滅した。彼にとって、恐怖と苦痛の源泉である神から解放された自由な人間の実存は、死の自由を意味するほかはなかった。

これによると、神はいてはならないとするキリーロフは、それゆえに神からの人間の自由と自主性を信奉するが、結局その徹底性は死という破滅しかもたらさなかったということだが、思想を歪曲させて一貫性を持たせようとするばかり、論理がまるっきし逆走していることが分かるだろう。勝田は、「ぼくの我意のもっとも完全なものは、ほかでもない、自分で自分を殺すことにある」という発言を顧みることなく、自殺行為を自由性立証の契機としてではなく、徹底した人間主義の哀れな結末として位置づけようとしているのだ。しかも、宗教的理念や倫理的自由という名の宿命論に抵抗した結果が自殺とはこれまた奇妙である。宿命に反抗してあえて正反対の行動を選択するというのは我意の自由でもなんでもなく、その実は宿命論に対称的に操られていた天邪鬼であることの証左でしかない以上、それは自由ではないのであり、キリーロフの発言と矛盾した解釈になってしまうではないか。ここまで来ると勝田の考証は捏造に等しい。キリーロフの思考の出発点は「神がいる」ことなのではない。潤沢な自由性から発する「神がいない」ことへの確信なのだ。それを、「神がいてはならない」という稚拙な理想主義へと貶めて「神がいる」現実と闘わせ、そうして思い通りにキリーロフを拮抗に陥れて敗北させるその自作自演には呆れ返るばかりだ。勝田は、「神がいてはならない」思想を徹底的に排除することで、反語的に神がいる世界を夢想の中でひとり構築してゆく。そして、変造されたキリーロフの悲劇と、人格の主権と価値への志向が逢着する蹉跌と大敗を共鳴させる儀式を経て、自我の絶対肯定や人間の独立、そして最高の自由を否定に呪われたナルシシズムによって悪意とともに踏みにじってゆく。すなわち、自己の編み出した反実存主義と反人間主義思想によってキリーロフに残酷な解答を指し示すことで、勝田は「悪霊」の発する説明への誘惑に這いつくばるまでに隷従しているのだ。明快な世界の原理を追求しようとしないキリーロフの精神態度を扱っているにも関わらず、あの暗愚な摂理主義に堕落している勝田の姿勢は、滑稽でありながら同時に象徴的で、かつ悲劇的である。反抗を意識し世界をその原初状態に保って対峙し続ける処方がこうもあからさまに提出されているのに、意識を希望で曇らせる人間は、持ち前の臆病さと怠慢とによって試練から逃避し、自分に都合の良い解説をでっち上げることで強靭な生から目を逸らしてしまうからだ。だが、仮にキリーロフのこの言葉にわずかでも耳を傾けるならば、そうした世界を説明の中へ組み込んでゆく妄想は即座に断ち切られるであろう。

もしきみがこのことを〔神が存在しなければ人間にはいっさいが可能だということを〕はっきりと感じていれば、きみは皇帝(ツァー)なんで、自殺する必要なんかすこしもないよ。きみは栄光の絶頂に生きていられるんだ。

この俺は不幸なんだ、なぜって、俺は自分の自由を主張しなければならないんだから。

神がいなくとも人は生きてゆけるというかれ自身の証言によって、自由意志の破滅を唱える勝田の解釈は見事に瓦解すると同時に、説明原理を所与されていなければ人は生きてはいけぬという宗教も欺瞞として隈なく駆逐される。キリーロフが自殺をするのは、ただ自由の証明のためだったのだ。それも自分自身の信条ゆえではなく、このことを自己の感官と知覚の全てでもって直観するあらゆる人びとの正当性をはっきりと指し示すためにである。宿命論者は神のいる世界を憧憬し、神のいない世界を考えてみようともしない。その巧妙さに翻弄されて自己の自由性が断罪されたと思い込んでいる人間たちは、全てが神の制御だという捏造者の教唆を受けて自分を奴隷に貶めている。だがキリーロフは、私たちは被抑圧者ではなく、行動可能性の扉を前にした人神なのだという真実を知らしめるのをみずからの絶対使命とするがゆえに、人間がおのれの死を受けて真に覚醒し、ついには可能性の栄光を打ち立てるに到ることを託して果ててゆく。神であることの裏づけのためではなく、究極的自由の逢着でもない、ただかれを死へと押しやるものは絶望ではなく、隣人に対する隣人愛なのである。かくして、かれは全人類の自由に捧げられた高貴な生け贄となることをみずから選び取ったのだ。

キリーロフは、人類愛のために自殺しなければならぬ。同胞たちに王者の歩むべき苦しい道を示し、身をもってまっさきにそれを歩いてみせねばならない。

 例証の最後に、私たちは冷酷な検討を行わねばならない。かれの犠牲は、幻想に生きる人びとを夢幻の迷妄から目覚めさせることができたのであろうか? ――ドストエフスキーは、その解答を「カラマーゾフの兄弟」におけるアリョーシャに託して語らせている。

カラマーゾフさん、宗教が教えてくれることは本当のことなんですか、ぼくたちが死者たちのあいだから蘇って、ふたたびおたがいに会えるというのは。
――きっとまた会えます。そして過ぎ去ったことをおたがいに楽しく話しあうんです。

キリーロフの自殺をもってしても、人びとはとうとう明徹な意識を呼び覚ますことはなく、結局、かれが民衆に打ちつけた偉大な宣告は却下されて一敗北者のピストルの響きという事件として処理される。すなわち、ドストエフスキーは最終的には永遠を受入れ、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物*1を勝利させるのである。かれは深刻な諦観とともにこう洩らす。

永生への信仰が人間存在にとってこれほどまでに必要なのは(それをもたなければ、ついには自殺にいたるほどであるのは)、それが人類の正常状態であるからだ。とすれば、人間の魂の不滅は、疑いもなく存在する。

かくして他ならぬドストエフスキーが、真理を失った人間の耐え難い苦しみと嘆きにすっかり恐怖してしまい、絶望と観念とから一転、不条理を隠蔽する愚挙に出ることで、あの勝田と同様に宗教という名の飛躍に意識を埋没させてゆくことになったのだ。確かに飛躍は感動的である。世界の真理と整合性を求めてやまない人間の本能にとって、それは説明であり、原理であり、救済であり、やすらぎであるからだ。しかし、不条理と全面対決する人間に対して不条理を消失させる解答を示すとき、明晰さと中庸とを保つ道を踏み外してしまうことで、ドストエフスキーは不条理との決闘から逃れて不確かなものへと没入する、あの実存哲学者的小説家へと明らかに後退することになったのである。
 私は、「悪霊」を不条理からの条件が挫折していない小説だと記したが、今やそれは訂正されねばならぬまい。ドストエフスキーがキリーロフを挫折者として描き、敗北の論拠として自殺を下げ渡したとするなら、かれの作品は不条理な作品ではなく、不条理な問題を提起する作品でしかない。キリーロフは堅牢な誠実者であり、自殺という不条理の要請から逸脱した過失を除いては極めて完成された不条理の人間であったが、ドストエフスキーは、一度はかれに豊饒な相貌を与えながらも、最後には希望を授けてくれる神への信仰に身を委ねてしまってキリーロフを否定に塗りつぶす結果に終わったからである。とはいえ、白夜の薄暗さの中で不条理の論理を勇敢に推し進め、人間の光輝なる高みをその帰結として自力で引き出した事実は十分賞賛に値するだろう。私たちはその見事な格闘ぶりを網膜に焼きつけ、意識の主軸として闘争の際のひとつの有力な参照とすればよい。むろん、論証を経たあとでかれがむざむざと説明への誘惑に敗北し格闘を停止させてしまったことは反面教師にしながら、である。