「シーシュポスの神話」を読解する5

(えーと、現象学についての記述をすっぽかしているので4を飛ばして5になります。)


 人間を全被造物に対立させている(p.92)ものは、ただこの理性であり、またそれこそが世界とのあいだにのっぴきならぬ葛藤――不条理――を与える。確実性と明証性への徹底的な追求は、論理的飛躍を退け、こうした所与を守り続けることを課すことを明確にした。これが前章までの大まかな布石である。次にカミュは、付け加えて私たちは断絶の本質をなすもの(p.93)、すなわち意識(p.93)をもなおかつ支持しなければならないと言う。闘いに赴く者は気魄凛然とした意気と敵を掃滅せんとする強い決意に満ち溢れていなければならないが、そもそも眠りこけていたり酩酊していては闘志を発揮するどころではないだろう。不撓不屈の精神を保持するにも、鎧袖一触の気概に熱く燃えるにしても、まずは明徹な思考をもって目醒めたまなざしによって自己を把持している必要があるのだ。不条理に立ち向かう人間にしても同じことで、すなわち、たえず緊張させられている不断の意識(p.93)なくして葛藤・断絶(p.93)の維持が成し遂げられるはずはない。言い換えるならば、それは希望を捏造する宗教家のいかなる煽動にも動じないことであり、あの形而上の残酷な対立に精神の傾斜を以て絶望しないことである。つまり、頑強であるということだ(p.94)。この精神態度をカミュは誘惑者との対話で表現している。やや長くなるが、以下に引用してみよう。

歴史にはいろいろな宗教や予言者たちがいる、いや神のない宗教や予言者にもこと欠かない。そこでかれは飛躍を命じられる。かれに可能な返答は、自分にはよくわからない、それは明々白々たることではない、ただこれだけだ。かれはただ自分によくわかることしかやろうと思わないのだ。するとかれは、それは傲慢の罪だという断言を聞かされる。しかしかれには罪という観念が何のことだかわからない。おまえはたぶん地獄行きだと言われても、地獄というこの奇怪な未来を自分の眼前に描き出すほどの想像力はかれにはない。永生を失うぞといわれても、永生などかれにはくだらぬものにしか思えない。相手はかれの有罪を認めさせようと躍起になるが、かれのほうでは自分は無罪だと感じている。そう、かれはただそれしか感じない、一点非の打ちどころのない無罪性しか感じていない。いささかも罪を犯していないから、かれにはすべてが許されている。(p.94)

ここに一つの疑問が生じるかもしれない。罪や地獄や永生という観念さえも分からないというのはどうも不明である、おかしいではないか、と。身近ではないながらも、我々はそうした観念をおぼろげに理解することはできる。では不条理を意識した途端に抽象的な思考の一角が崩落するとでも言うのか? 覚醒は飛躍を無価値に転じしめるものではあっても、想念を奪い去るものではないはずだと詰め寄るやもしれぬ。しかし、これは本文の意味合いをやや取り違えた突っかかりだろう。カミュは、

かれが自分に要求するのは自分の知っていることだけで生きることだけで生きること、存在するものに満足し、確実ならざるものはなにひとつ介入させぬことである(p.95)

とも言っている。飛躍を拒否し理性と共に生きるということは、明証的事実、すなわち確実性のみに依拠することを言い表しているが、逆に言えば確実ならざるものはかれにとって全く無関係であり、繋がりを示唆させるものさえも皆無ということだ。ある物事が自分と無縁だとは考えないときに私たちの興味は芽生える。だから、おにぎりの代金としてコンビニの店員に渡す硬貨の今後の運命が如何なるものなのかは想像しようともしないし、真向かいの店員の今朝の食事のことなど頭もかすめない(※)。


※いや、ふと疑問が脳裏をよぎることはあっても、それが今日明日を生きるのになにかしら重みを持つということはまずあり得ないことだ。或いは、重度の神経症者ならそれもまた人生の一大事なのかもしれない。とはいえ、果たして神経症者に飛躍を度外視する思想が耐えられるのだろうか?※


「想像力がない」というのはつまり、「そんな想像など思いもよらない」ということの強調表現と解するのが妥当である。硬貨の運命や店員の食事と同様に、罪や地獄や永生という観念はかれの興味を惹かず、実際かれにはあずかり知らぬことなのだ。だが、誘惑する宗教者の言にも有用なものがある。

すると、確実なものなどなにもないという返答を聞かされる。だが、すくなくともそのこと、確実なものなどなにもないということ、それは確実だ。(p.95)

となると、次なる課題は

つまり、上訴の可能性なしに、確実性をこれっきりのものとして生きることがはたして可能か(p.95)、

という問題へと移行していく。上訴とは、審判を不服として裁判の確定を遮断することにより新たな裁判を再度求めることである。確実なものだけで生きることは実はできないのではないかという疑惑も完全に払拭できるように、議論をさらに前へと進めようというわけだ。
 頑迷なまでに不条理に固執すること、誘惑者の提示する生き方を「拒否する」ということ、そうした態度をカミュは反抗(p.96)と呼ぶ。反抗とは(明証性という)透明性への要請(p.96)であり、不断の対決(p.96)であり、毎秒毎秒世界を問題にする(p.96)ことであり、そして不条理な運命を生きぬいてゆくこと(p.95)だ。……ここで運命という語が突如として登場してきた。運命と言えば、未来に起こる事象の受容という一見主体性のない受け身の生き方を彷彿させる。そこには人生に対するある種の諦観と退嬰的な従属をも暗示されるだろう。だが、誤解なきよう、私はここに一つの解説を付さねばなるまい。何かを受け入れるということは、しばしばそれに伴う結果を引き受け、あらゆる責務を遂行するということだ。そこには道義的責任を一身に受けるだけの強い覚悟がなければならない。そうだ、運命とは悲壮なまでの決意であり、全てをそこに賭した覚悟だ。決して怠惰で無責任な、生ぬるい甘受を指すのではない。そう解釈してきたのはむしろ重責を忌み嫌う愚かな大衆――解釈者の側なのだ。だから、不条理な運命を生きぬくとは、今後の長い人生における如何なる不条理に対しても、断乎として不退転を決めこむことに他ならない。そのとき彼は未来の自分の在り方を否応なしに決定づけ、付随するあらゆる影響を一人で背負いこむのである。ゆえに、将来に起こるであろう苦難や疼痛は、もはや決断のあとに残った些末な余燼のようなものでしかない。十全なる予測を行った上での行動ののちに発生する現象が、行動に随伴して起こる残響めいたものにしか感じられないのと全く同じことだ。「今からこれをやるぞ」といざ一念発起して火を起こすとき、山に向かって叫ぶとき、それに継起する余燼や残響を予期せぬ者がいるだろうか(無意識にそうした行動を起こすとは考えにくいだろう)。かくして、運命を生きる者は以後の人生を十分に確信を持って突き進むのである。カミュはこの強靭な意味での反抗を、不条理を、全力をあげて自分の眼前にささえつづけ、自己自身に現前していることだ(p.96)と表現する。裁可を下す現在の自分、それに作用を受ける未来の自分。或いは裁可を下した過去の自分、苦悩する現在の自分、より悲痛な苦しみに懊悩するであろう未来の自分でもよい。そうした自己の総和を絶えず冷徹に見すえて毅然とした覚悟を以て自己の全てを双肩に担うこと、それが反抗であり、運命を生きぬくということであり、かつ論理的帰結としての生き方だ。となると、もはや自殺は反抗の対極項として位置づけられる愚昧な非論理ということになる。確かに自殺はそれなりに不条理を解決してしまう。だが、それは肉体を滅ぼすと同時に不条理を同じひとつの死のなかに引きずりこむことを意味する。不条理を滅ぼしてしまっては無責任な飛躍、不誠実な逃避も同じことではないか! 
 2008年に、日本のある女子高生二人が飛び降り自殺した。このような遺書を残していたという。「死ぬ理由もないけど生きている理由もない」。カミュに言わせるならば、「生きる理由が無い」という唯一の恐ろしい未来を彼女らは見わけ(p.97)たがゆえに、そのなかへと身を投じて(p.97)いったということになる。つまり、人生に生きる意義がないということで死を望むことによって、逆に人生に意義があることを追認してしまっている。人生には生きる理由があるという世界と対峙する自らを否定するのと、世界に生きる理由があるという運命は全く同時的だからだ。なかったはずの死ぬ理由が生きる理由にたちまち反転してしまう生とはなんという不幸だろうか。彼女らは絶命するその刹那に生きる理由を見いだしたのだ。…これでもうお分かりだろう。ひとつの経験を、ひとつの運命を生きるとは、それを完全に受入れる(p.95)ことであり、全人生にわたって運命の確信(p.96)という一つの覚悟を力強い双眸に宿すことだ。こうして私たちは、飛躍に頼らず、ただ理性のみによって生き抜く術に辿り着いた。その生きざまは、

知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿(p.97)

だった。当初、私たちに与えられたものは、世界を形而上的に対象化するというみじめったらしい力に過ぎなかった。それはそれで人間の特権ではあったけれども、同時に煩悶や憂鬱をもたらす極めて非力で矮小な代物だったのだ。ところが、反抗と運命がひとりの人間の全生涯につらぬかれたとき、反抗はその生涯に偉大さを恢復させるのだ(p.97)。理性の蹉跌によって失意に塗れることもなく、不条理を恐れて忌避することもなく、気力に充溢した身心を以て勇壮に生き抜く姿は、精神の傾斜や不条理からの逃避で以て後ろめたく生きる者や、絶望して自ら死を選ぶ者と比較して何が劣ることがあろう。いや、間違いなくその生は輝いている。なぜなら、彼はもはやただ一人で世界に刃向かうことのできる栄光の存在だからである。
 生きるべきか死ぬべきかカミュの巧みな誘導のもと、私たちはいつの間にかその答えを、そして屈強に生きるための一つの処方を解明してしまったようだ。

不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々に意識的でありつづけ、反抗をつらぬくことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。以上が第一の帰結である。(p.98)