コーマック・マッカーシー「ザ・ロード」「火」への自意識

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)


父子は、いかに窮に瀕しようと人肉を食さないことを信条とする「火を運ぶ者」を自認する。そして少年は、途上で出くわしては見捨ててゆく何人もの惨めなさすらい人に対して、朽ちた無法の世界に向けられるのとちょうど同じような、魂のうごめきにもだえる目で振り返ることを忘れない。しかし、その沈痛な精神の発作は同時に自己の内部もまた透徹に見つめさせるのであり、彼はそこに同胞を見殺しにした生命の簒奪者を少なからず認めるのである。不名誉な恥辱が知らず識らず裡側に入り込んでいるのを発見しては、道義心のおののきから共鳴する矜持の底辺の震えを誰しもが否定できない。こうして、生というものが、比喩的な意味にしろそうでないにしろ他者の肉を喰らうことで持続していること、すなわち人間の無罪性が根源的にありえないという残酷な世界を少年はその透明なまなざしによって虚しく看取する。ゆえに彼らが語る「善い者」とは、人肉食を拒否することによってではなく、ただ置き去りにすることも含めて、あらゆる種の掠奪に対して自覚的であることによってのみ与えられる称号なのである。なぜならば、完全に無垢でい続けることがもはや不可能な境遇において、人間と動物の臨界点から恥辱を濾過させるのは行為ではなく行為への認識と反省であり、それこそが人間の連帯を可能にさせるからだ。「火」なるものへの自負のよすがとは、「善い者」としての、捨て去られゆく者=奪われる弱者との微かな交感であると言えよう。


ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)

私たちはここで武田泰淳の「ひかりごけ」を想起してもいい。死んだ仲間の肉を屠った船長は、検事の咎め立てに対して「いろいろのことを我慢しています」と静謐に答える。そして、罪業を背負う彼の首のうしろにぼんやりと光る光の輪が、呼応するように裁判官、弁護士、検事、傍聴人にも顕れることで、呪わしい宿命と不条理を含めたいっさいの恥辱の普遍性が暗示される。生が本質的に他者からの掠奪によって支えられているという容赦のない洞察をめぐって、極限における人間としての自意識の同調に気づくだろう。船長の上告がしめやかに訴える不条理とは、「ザ・ロード」が提示する、逃れる手立てさえ与えられない万人の罪過とその惨たらしい被投性とまったく同一なのだ。したがって、人肉を食す者、食さない者という行為上の弁別はやはり意味をなさない。「善い者」とは、首のうしろに光の輪を宿す者でもある。刻印は天上的な聖性の証ではなく、むしろ地上にはいつくばるような羞そのものであり、その共有に他ならない。


人間の汚辱を動物のぶ厚い被膜で覆い隠して感覚を泥濘の底に沈ませるには、彼らの「火」は強すぎた。「火」は後ろ首の掠奪者の烙印に灯りをともす。それゆえに、動物に退化することなく人間の境位に踏みとどまる者たちは、青白く痩せこけた少年のかよわさと常に同居せざるを得ない。しかしながら、灯りと灯りの痕跡との消え入る寸前の交信のみが、「火」を掲げもつ人間の復活をほのかに予感させる。人間的理性・原子力・暴虐を象徴する「火」とは、そうした背反的な可能性のすべてを包含しながらひたすらに屹立する、恥辱と正対する我慢=覚悟への意力でもあるのだ。高邁な気位に導かれた船長と少年の苦難のロードは、認識の彼方でひとつに繋がっている。