ベケット「勝負の終わり」

勝負の終わり/クラップの最後のテープ (ベスト・オブ・ベケット)

勝負の終わり/クラップの最後のテープ (ベスト・オブ・ベケット)


作家には同一性の否定を好む性質があるということで、ならばいつものように類比を持ち出して外堀を埋めていこうと思いつくまでもなく、モチーフがレイモンド・ブリッグズの「風が吹くとき」と酷似していることを直観する。めんどくさいので説明は省くが、要するに「ゴドーを待ちながら」におけるゴドーや「勝負の終わり」における世界の終わりとは、「風が吹くとき」における政府の救援と同じく、不在の永遠性が不条理によって刻まれているのである。
粟粒の山を二分割し、片方をまた二分割する作業を無限に繰り返そうとも、粟粒が無くなるという最終的事態をその延長として理解することはついにできない。切り分ける日常は、切り分ける粟粒がもはや無いという終末めがけて常に反復されるけれども、終末とは、根本的な性質の相違ゆえに、そのときになってみないと分からないような不可知なのだ。つまり、終わり=死=救済とは、ある日突然訪れるそれであり、しかもそのときにはすでに何もかもが手遅れになってしまっているようなそれであると言える。だから、ゴドーやゲームの決着という戯曲内では終始ぼかされる主題が実在するのか、果たして本当に到来するのかという疑義は不毛であろう。前回の「鉄の時代」の記事ふうに言えば、かれらのアイデンティティは不在という無根拠・無意味性に照射されるので、祭り上げられた実存はその饒舌な自分語りの話の腰を折られた形で頓挫する。
照射される。が、空白が照射する。ベケットにおいて重要なのは、おそらくこうした梯子外しを思わせる執行猶予の論理に塗抹された人間の不安と思われる。無意味にも意味があるというのは人情でしかない。日常の擬装を取り払うのは他ならぬ実存の悲鳴である。よもや無くなった粟粒を眼前に認めることはできまい。