「シーシュポスの神話」を読解する2

 ここまでの流れを改めて確認しておこう。特に、不条理の分析方法についてはまだ抽象的で、その意味するところが十分に汲み取りきれないので、それについても具体的に見て行こう。
 幸福と理性への欲望(p.53)という人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙の対置、或いは人間的な郷愁と非合理的なもの(p.53)の対峙、それがすなわち不条理の生成するときである。不条理にぶちあったった人間は果たして生きるべきなのか死ぬべきなのか。この最大の問いにひとりの人間存在にとって可能なかぎりの論理をつらぬきながら答えることが最終目標なわけであるが、そのためには頭を悩ます対象・不条理を明徹に把捉する必要があったのだった。そして、それを突き詰めるべく直接的分析によって観念の意味内容と格闘するという手段は、精神が精神自体の上に身をかがめる(p.35)循環論法に他ならず、たちまち眩暈的な渦巻の中に迷い込んでしまう(p.35)というのも先に述べたとおりである。ではカミュが採用する代替的な分析方法はどのようなものなのかというと、不条理を認識することから半ば自動的に抽き出される帰結をただじっくりと見届けることなのだ。「定性的な相貌の総和」や「感情が原動力となる行為や感情の前提となる精神態度からの外挿」と難解に言ってもなんてことはない、要するに帰納法のことである。込み入った推測も突飛な論理も必要とせず、求められるのはただ対象から目を逸らさないだけの粘り強さなのだ。指針がようやく明らかになったところで、議論の土台・前提となるべき不条理の本質を見極めていこう。ここでは、不条理の観念を観念として捉えるのではなく、卑近な不条理の状態を想起することでその性質を導き出すという手法を採る。もちろん、これは帰納法に還元される手段の一つである。
 「absurde」(不条理的)とは、語義的に「ありえない」「どうかしている」「矛盾している」情況である。私たちはどんなときに「absurde」の印象を受けるだろうか。カミュは次のような例を挙げている。

ひとりの男が白刃をふるって機関銃隊に襲いかかるのを見れば、その行為はabsurde[どうかしている]と、ぼくは判断するだろう。(p.56)

高潔な男に向って、きみは自分の妹を犯したと断言したりすれば、《C'est absurde》[とんでもない]と相手は答えるだろう。(p.55)

 私からも具体例を一つ挙げよう。大して勉強が好きでも得意でもなく、机に向かうわけでもなく日々を遊んで暮らす学生が「将来は研究職か大学教授の地位に就きたい」という夢を語るとき、私はそれをabsurde[矛盾している]と感じるだろう。また、日々を遊んで暮らす浪人生というのも分かりやすいabsurde[非合理さ]を持ち合わせている。こういった日常にさりげなく転がっている材料をかき集めて定性的な考察を施すと、どのようなことが判明するか。これは至極容易なことであろう。或る言動を「absurde」なものたらしめるのは、人間側の論理とそれを超越する世界の判決という二項の比較(p.57)以外のなにものでもない。不条理とはそれ単体で論じられる独立的な観念ではなく、或る何かを他の何かと対比させ、それが根源的に相容れないときに噴出することに注意されたい。水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむという情況は、河川という場所(=世界)と水に濡れまいとする意志(=人間存在)の双方が無ければまるで成り立たないだろう。この二つを組み合わせることでそれまで存在しなかった不条理が魔法のように生成され、私たちはそれをabsurdeだと感じ取るのである。カミュの言葉を借りると、absurdeの存在を裏付けるものは、

かれの企図とかれを待ちうけている現実とのあいだの不均衡、かれの実際の力とかれの目ざす目的とのあいだに認められる矛盾、ただこれのみによる。(p.56)

この洞察から、不条理についてもう一つの本質が抽き出される。人間と世界の対置こそが不条理の条件ならば、不条理はそのどちらにも属していないということである。極めて明白な叙述ではあるが、世界・人間・不条理の三項関係(p.57)が決して分割されえぬものだ(p.58)という指摘は今後の議論の大きな参照項になろう。というのも、論理をその終結まで押し進め(p.59)るにあたって、不条理が前提として提出する要請を破壊したり、ごまかしたり、かわしたりする(p.59)ことは非論理的な反則技であり、ここではそういった精神的傾斜を捨象する必要があるという示唆が得られるからである。不条理に希望を奪われて自殺することは、論理的ではない。なにしろ、希望のまったくの不在は絶望とはなんの関係もない(p.59)のだ。そして不条理を手離しに同意することも論理的ではない。不条理は人間の側にあるものではない。不条理を内部化することで不条理をなしくずしに滅ぼし(p.59)てしまうことも徹底的に回避しなければなるまい。
 こうしてようやく材料が整った。不条理に切迫するための分析方法、不条理の本質、そして議論の拠り所にすべき論理が出揃ったのである。これらを元に、カミュは次に実存哲学の検証を行っている。どうして急に一転してそんなことをするのだろうか。これにもれっきとした理由がある。その背景を軽く述べよう。
 本題とあまり関与しないことだが、思考におけるカミュの姿勢は飽くまで理性を重んじるものである。合理主義批判や理性の歩みをつまずかせようとするいろいろな逆説的思想体系(p.44)が歴史の中で繰り返し立ち現われてくる事実を、彼は

理性の有効性を証明するものではなく、むしろ理性の希望の激しさを証明するものである(p.44)

と解釈している。こういった理性重視の態度があったから、カミュは理性の王道を塞ぎ、その上で真理へとまっすぐに到る正道を見いだそうとして熱情を傾けてきた(p.46)先人の実存哲学者の諸精神に自分と同じ風土を感じ取っている。つまり、矛盾や二律背反や苦悶や無力などが支配するあの言語に絶する宇宙(p.46)を最初の経験とし、理性を常に照応して不条理に取り組む彼らの姿勢は、カミュのそれと全く同一のものなのだ。かくして、自分と性質を全く同じくする先人の発見と最初の経験を問題(p.46)として是非を検討することは、実に有益だと判断するに到る。