フォークナー「アブサロム、アブサロム!」

アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)

アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)

ニューオーリンズに住むチャールズ・ボンの母と「個人契約」を結んでいたとされる弁護士の存在は、その目論見からして、この小説における語りの圧倒的な不条理であり、真実なるものに向かおうとするときにわれわれが阻まれる、数知れない泥沼のひとつである。しかし、かれにまつわる謎は、それが解き明かされることで、小説内の語りによって不当な撹乱を受けざるを得なかった、本来であれば語られるべきであった本当の物語における、欠かすことのできないひとつの因子であり、また、ある正統な解釈のもとで一人の名脇役として位置づけ直すことができるような、作者が凝らした巧妙な暗号であるとは私は思わない。そのような期待は、語りという撹乱が意図的に無数に混入されることで、作者自身によって強く否定されているからである。だからといって、この弁護士が小説において非実在であったと性急に結論を下す理由にはならないが、語りがこの弁護士に触れるときに、不意に避けざるを得なくなる意識の挿入と、そこで実際にあったとされる諸々の出来事とまるで調和することを拒むかのような、どちらかと言えば演劇じみた、不自然な場面の堆積は、われわれ読者をある疑念へと高まらせる効果を十分に果たしてくれる。それは、語り手(クエンティンとシュリーヴ)は、実は初めから物語の謎を解く者として語りを語っていたという、自明であるはずでありながら、語りにおいては必ずしも自明とはならなくなっていた物語の非自明さということである。
こうして私は、それが暗号ではなく泥沼であり、真実ではなく撹乱されたものであったという当初の認識に舞いもどることになる。だが、今度はこうも言うことができる、次にこの小説について考えるとき、私は真実なるものへ向かおうと思うことはないだろう、私は、解かれた謎だと思っていたものを、解かれようと試みられた謎として再び眺めわたすことで、そこにこの小説の価値を見出そうとするだろう、と。