「シーシュポスの神話」を読解する1

 読解と冠しましたが、本文の逐一解釈・解説と言った方が適切でしょう。興味はあるんだけど難解で挫折した…という方や、カミュの不条理の哲学を理解したいと思っている方のお役に立てられれば幸いです。また、彼の小説、特に「異邦人」に込められた思想も解釈していますので、理解の一助として皆さんに貢献できればなによりです。では行きます↓



あらすじ

神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。――本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。(新潮文庫


 人は自分がなぜ生きているのか、なぜ生まれたのか、世界とは何なのかを自問する。なぜ生きていくのか、なぜ死んでいくのか。世界を認識するこの主体は何か。人生の意味・存在の意味・世界の認識の在り方をひたすらに問い続ける。しかし、当の自分自身が疑問に答えられるはずもない。人間は神のような完全なる客体、或いは超越存在ではないからだ。肉体という閉ざされた枠を持ち、その限界内に宿る精神を以て絶対的真理に辿り着けはしない。そして他人の答えに納得のいくはずもないだろう。宗教や政治といった他者が与える意味は単にその他者にとっての意味に過ぎず、たとえ帰属対象であるとしても自分自身とはまるで無関係だからだ。肉体的・精神的地平線を越え出ることのない自己という存在に焦点を向ける限りにおいて、永遠の真実たり得る生の絶対的指標を得ることは敵わない。人生の意味、生まれる理由や死ぬ理由など、本当のことは誰にも分からないのである。人が懊悩するのはそれだけにとどまらない。起床・食事・通学・睡眠、当たり前のことを当たり前にこなしていた日常の連綿の中で、突如その当たり前が物凄い違和感に取って替わる瞬間に襲われることはないだろうか。見慣れた他者の顔つきや自分の顔をじっと見つめているうち、不意にそれが見も知らぬ赤の他人のそれのように思えてきて、しまいには顔の各構成要素がばらばらに分離して認識され、見てはいけないものを見たかのような身の毛のよだつ経験をすることがある。学校や会社や人々が往来する通りの中で、視界の中にいる機械じみた・パントマイムのような・非人間的なこれら人の群れが、果たして何のために生きているのだろうかという懐疑からある種の嘔吐感すら催すことがある。日常や認識を形づける後天的な記号過程や認識法が思考から乖離して、世界自体がその有りのままの様相をグロテスクに呈すのである。奇怪この上ないこういった現象は、名状し難い圧迫感を持って私たちに迫り寄る。人はそれを脅威に感じるだろう。私という人間と私の生きるこの世界が、決して理解できず、到達も叶わない超然とした混沌に塗れていることの是認は、統一された私という存在が幻想に過ぎなかったことの自白に他ならず、「人間」としての矜持と自負がそれを許さないからだ。「私はここにいてもいいのだ」「私という人間はここにいるのだ」という確証を得るためには、無謀と分かっていても意味を掴み取ろうとしなければならない。そしてそれは決して演技ではないのだ。世界から疎外されて沈痛なまでに追い詰められた人間が叫喚する、心の底からの一貫性への郷愁ゆえなのだから。
 意味づけと理論化を目指す人間の企図に対して、それを徹底的に撥ねつける世界という構図は量子力学においても見られる。電子の速さを特定しようとすれば位置が不確かになり、位置を特定しようとすれば速さが不確かになる。「何もなかったはず」の真空は、現代では今や無数の仮想粒子が生成と対消滅を繰り返す極めて躍動的な状態となっている。現代科学の常識が無知蒙昧な過去の妄想と成り果てるのも時間の問題だ。それだけに留まらない。不確定性原理不完全性定理、不可能性定理。理性の限界は着実に立証されていき、世界を人間の側に引きずり込む計画は挫折と崩壊の感がいよいよいや増していくではないか。ここには絶望的なまでの断絶がある。自明の理のごとく、既に世界は人間に手には負えないかのように振る舞う。にも関わらず、今日も人は頭を抱え煩悶を重ねて苦悩する。生きる意味、死ぬ意味、存在する意味、この世界の意味、そうした一切をただひとつの観念で曇りなく統合してくれる窮極の真理を得るべく、深淵での懊悩を繰り返す。世界との整合性を取り戻すため、世界の中の私という人間を位置づけるために、途方もなく遼遠な問いかけとの格闘を一生に亘って続けるのだ。水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむような荒唐無稽のこのような企て、或いは状態を不条理と呼ぼう。すなわちカミュに言わせると、

不条理という言葉のあてはまるのは、世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。(p.42)

人間対世界という対立構造を把捉するならば、不条理の特性について、さらにこう述べることができる。

不条理は人間と世界と、この両者に属する。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。(p.42)

 人間と世界の紐帯がただ不条理のみであるとはおかしいではないか。私たちは世界に属しており、それは日々の生活の中でいつも感じ取っている馴染み深いものなのだ、と後半部分に抗弁する者がいることが予想される。だが、彼らは果たして世界の何を理解し把持しているというのだろう。この目で見、耳で聴き、皮膚で感じ取る現象が世界を反映しているという保障はどこで得られるのか。いや、世界を既知のものとして追慕するその身勝手なノスタルジアはどこから来たのか。忘れてはならない。我々はあの郷愁の地から断絶されている。誰がなんと言おうと、これだけは覆りようがない明証的事実である。というよりも、これを起点として不条理の観念が定義されたのは既に書いた通りなのだから、納得いかないという訴えはそもそも俎上に乗せるべきではなかったのだ。
 では、本書における「不条理」の大体の意味合いを捉えた上で、いよいよ本文に入ろう。「シーシュポスの神話」でカミュが自らに課した責務は、存在論や主体性の問題といった古来よりの普遍的な哲学的命題ではなく、生きるか死ぬかという、切実としたまさに根源的な問いに答えることである。このことは一番始めに述べられており、さらに彼は思考が導き出した帰結が行動と不可分であることを宣言する。

ある問題のほうが別のある問題より差し迫っているということを、いったい何で判断するのかと考えてみると、ぼくの答えはこうだ、その問題の惹き起す行動を手がかりにしてだと。(p.12)

それゆえに、生か死かという二者選択の議論は彼自身の生死をも決定付ける。真に重大な哲学上の問題(p.12)であることの当然過ぎる根拠だ。真実だと信じていることがその行動を規定する(p.17)ならば、行動と一致しない帰結など真実たる所以はないなのである。例えば、「死後の世界は現実のこの世界より素晴らしい」と語る説法者は、生きているというその行為によって信憑性を台無しにしている。自死という選択肢を選び取らないことで、自らの存在を命題が欺瞞に満ちたものであること、いやむしろこの世界が死後のそれより輝いていることの証明にさせているのだ。これは別の意味で示唆的だ。つまり、選択とは告白に他ならないのである。カミュはこの告白性を弁えた上でこう述べる。

おのれを殺すとは、《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。(p.16)

同時に、告白とは自認を前提とする。自殺者は、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動のばかげた性質を、そして苦しみの無益を(p.16)認めているのだ。ここでは生の否認が人生に生きる意義・意味はないという認識に支えられていることは間違いない。生きるに値しないから死ぬのは当然のことであり、一見すると議論するまでもない不毛な真理(p.21)である。しかしながら、生きる意味が無いということと生きるに値しないという二つの判断は果たして不可分なのだろうか。カミュは議論の分節となる次の重要な指摘を行うのである。

このふたつの判断のあいだには、否応なしに両者を結びつけなければならなくなるような尺度などすこしもないのだ。(p.21)

不条理は、人をその生や世界との断絶へと到らせる。何の意味も無いのだ、私たちの存在に何ら必然性は無いのだと世界は執拗に三行半を叩きつける。だが、それ自体が生の否定と同値というわけではない。当人の精神的傾斜が否定へと導き入れるとしても、そこには明らかな飛躍、それも不条理が与える底なしの虚無や絶望をあっさりと《苦労するまでもない》と取り違える飛躍が介在している。だとすれば、

生存の不条理性は、ひとが希望あるいは自殺によってそこから逃れることを要請するものなのか(p.21)

がまさに問うべき喫緊の課題となる。曰く、その確実さに依拠して不条理性を真実と見なすことで、そこからいっさいの帰結をもたらそうと言うのである。
 現世の人間界に幻滅して兜率天や極楽浄土への往生を志向するというのは、仏教の価値体系の一つである。死後にもうひとつの生を「ご褒美として生きられる」ようにありたいと考えて、そのもうひとつの生を希望する(p.20)考えの何と多いことか。生の否定と生の希望という対極的な相違はあっても、傾斜という性質においては等価だ。いずれもが不条理からの逃避であるゆえに「希望あるいは自殺」という二つの相反する概念が包摂されるのだ。カミュは、不条理に刮目しないことは思考の自殺(p.23)も等しいと断言し、かくして次元は不条理との対決へと向かう。
 だがその前に、対決の仕方についてある限定を前置きとして加えている。彼はいきなり不条理な精神・感情に関して真の認識はすべて不可能だ(p.26)と告白してしまうのだ。なぜか。これについてはやや説明不足で逃げ口上のような感も否めないが(ついでにいうと「シーシュポスの神話」は哲学書ではなくエッセイである)、分析対象の致命的な自己言及性に起因している。つまり、思考が思考自体の省察を敢行するや否や、たちまちそれは無限の循環論法に陥るというのである。ここでは明晰に現実を理解しようとする努めも絶対的・統一的真理への郷愁もまるで不可能である(※)。


※どうも抽象的になってきたが、これは類的に科学の限界を想起すれば良い。実際、本書でも物理学的な世界の法則・機構についての記述がミクロ・マクロの両極端な方向へと突っ走ってしまっていき、結局は直観的認識によって把握されないがゆえに科学が(認識的平面では)単なる仮説に堕していることを述べている※


その意味で、カミュがまさに行おうとする不条理との全的対決もまた不条理なのである。章題が「不条理な論証」であることは、彼がこのことを多分に意識していることを窺わせるだろう。さて、そんな中で、彼は認識の方法を諦めて分析の方法(p.26)を試みると明言した。こんな例を引いている。誰しもにとって、他者とは理解から滑り落ちてしまうで還元不能のなにかがつねにある(p.25)存在であるために、例えばこんな教育をうけた、こんな生まれだ、こんなに熱っぽい、あるいはこんなに沈黙している、こんなに偉大だ、あるいはこんなに低劣だとひとつひとつ語ってゆく(p.38)ように,、その定性的な相貌を総和することで評価していくことしかできない。このように、

たとえ接近不能な感情であっても、感情が原動力となる行為や感情の前提となる精神態度によって、感情は部分的に露呈されてくる(p.26)

ことを利用して不条理の全貌の近似値を描き上げようというわけである。