「シーシュポスの神話」を読解する10

4/7謎の自分語りを加筆


 カミュによれば、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことは人を芸術創造へと向かわせる。その理由は明徹な視力をもった無関心が説明し解答することを辞めさせ、経験し記述することを問題にさせるという点を突き詰めることで明らかになるだろう。不条理の哲学は、人生の意味や存在の目的といった形而上の問題を脇に置いて、「意味を求めながらも意味を見いだせない」という当座に与えられた情況を検証していく。不条理を観察することでその要請や条件を引き出してゆくこのような手法は、無闇な飛躍を避けてひたすら自己の内省に留まり、意識の所与するところに投錨を降ろして構造や条件をひとつひとつ記述するものと言える。また、経験の量を増大させ、それらを汲みつくすことが生の要請であるとする帰結が導き出されたのも既に見てきた通りである。そして、こうした経験と記述に重みを置く態度こそが、実は芸術創造とじかに結びついているのだ。というのも、世界を説明しようという試みが歩みをとめた地点から、間主観性(※)


※難解な用語で議論を紛らわすのはこの読解の主旨に反するので、間主観性について一応説明しておく。不条理に関する感覚というものは当事者である自己しか把握できない極めて主観的なものであり、他我にも不条理が感じられているか否かということは確かめようがない(主観性)。しかし、もしも類比的推理によって他人もまた不条理を感じているという確信にたどり着くならば、「他我が私と同じあの独特の苦悩を有し、かつあの他我も私と同じく世界との関係を整合させようという野望を抱いているのだ」という新たな認識レベルに到達することになる。つまり、「(世界を問題にしながら日々懊悩する)主観が相互に備わっていることを相互が認識している」という自己のメタ的認識のことであるが、これを間主観性というのである。なお、これは他者のなかに溶けこんでしまうのではなく、万人が踏み入っている出口のない道を的確な指でその他者に示すという表現を自己流に解釈したまでなのだが、ともかくも他者の認識を経なくては創造への道が開けないことは誰もが納得することであろう※


によって自己の外に出て、他者と向いあうという契機を経て記述へと転じるとき、自分自身の現実を模倣し、反復し、再創造しようという努力は、そうして経験を増殖させるという意味で、生を二度生きること、つまり偉大なパントマイムにほかならないからだ(この点は俳優とまったく同じである)。ゆえに、芸術創造者と思想家は同じひとつの苦悩という出発点においては合致していることになるだろう。いや、思考と創造とがともにエポケーに端を発する同一の態度から現出したものだと表現した方が分かりやすいかもしれない。人生が理性によって意味づけされたり解明されたりすることがないのとちょうど同じように、作品はひとりの人生の目的や意義や慰藉ではありえない。経験の増殖という要求から出発する以上、いっさいが解釈されることを拒んでいる地平において、畢竟、作品とは人生そのものなのである。私たちがなにかに誘導されるかのごとく自然と作品へと引き寄せられるのも、ただ自分の生を、反抗を、自由を、可能なかぎり多量に感じとる意図があるからであり、それはこの意味で極めて正しい判断なのだ。
 ところが、ここに大きな難問が頭をもたげてくる。果たして人間は、作品における説明への誘惑に最後まで耐え抜くことができるのかという問題だ。これまでの議論から、透徹なまなざしと澄みわたるような澄明な意識を教訓とし、それによって飛躍を是認せず、反抗を自らのものとし、最後には待ち受ける残酷な運命を堅牢の覚悟によって確信へと塗りかえる偉業も可能ならしめた。恐れずに堂々とその一歩を踏み出す自信を完全に我がものにしたはずだ。だが、人はか弱い存在である。作中に描かれた希望や精神の平和という名のまやかしによって、高みを志向する者さえもがときとして幻惑に同意してしまう。欺瞞のカタルシスにかくも容易に涙を流し、捏造の希望にかくも造作なくはまり込み、そうして人びとはいつしか日常の営みの中で反抗を貫きつづけることを忘れ、聡明な意識をどこかに亡失させてしまうのだ。
 思いもよらない場所に待ち受けるこうした陥穽に、実を言うと他ならぬ私も落ち込んだ経験がある。いや、精確には「落ち込んでいる」のである。克己をおのれの信条とし「シーシュポスの神話」を人生のバイブルとする人間でさえ、平和を欲する気持から生れてくる誘惑には勝てず、ついには作品に闘争から逃れる光明を見いだして意識を堕落させてしまう実例だと思って自分語りを許して頂きたい。中度の対人恐怖とアスペルガー、そして勉学の重荷から苦痛の日々を送っていた私は、それでも身につけた処世術と実存主義思想、そして「シーシュポスの神話」を心の支えにして日々を営んでいた。幾度となく否定され叩きのめされる絶望のさなかにあって、明晰な意識による飽くなき反抗を忘れてはならぬと果敢に挑戦し続けていた。だがしかし、綱渡りを余儀なくされている虚弱な精神は、心の平安をもたらす誘惑には驚くほど非力である。私は梶井基次郎の頽廃主義的な私小説と出会い、社会とうまく接点を保つことに倦怠した人物たちがなんの躊躇いもなく講義を休んで酒に溺れる怠惰な生活を送ったり、或いは日常の何気ない行為や情景に心をときめかしているのに魂の救済を見いだすに到った。かれはその繊細な感受性によって芸術のなんたるかを追い求めていたのであって、人を自堕落へと誘っていたわけではもちろんないのだが、平安への願望が私に闘争の停止を命ずるには堕落した人間の甘美な描写だけで充分だった。自己の生に懊悩する迂遠な人生は誤ったことではない、それは効率と要領を要求する社会が排除しているに過ぎず、否定や是正から免れる当然の権利を有しているはずだという手前勝手な解釈に帰着した私は、自己を悩ますあの疑惑を特権化するに到る。つまり、「なぜ大学で勉学をするのか」、「それが自分の人生でいかなる意味をもち、いかなる価値を生むのか」、「成績や就職のことばかり案ずる周りの学生はいったい何者なのか」、そして、「自分はなぜ、生きているのか」という人生や他人に関する諸問題を取っ組み合いを第一に優先させたのだ。暴力的な現実を毎秒毎秒問題にして格闘することを、暗鬱で答えの出るはずもない苦悩と喪失の深淵をただひたすら覗き込むことへとすり替えることで、私は私を悩ますものに夢中になり、全力をあげてそこに埋没していったわけである(ちなみに、四万字を優に超えるこの読解文を書こうという試みもここから発生したものだ)。結果として、もはや単位を取得することにかつてのような情熱を感じられず、それまではストイックに勉学に励んでいた科目の試験さえ平気で休むようになり、当然のように翌年度の留年が決まってしまった。十代の軽率さゆえに、「悩むことが生きることである」と安易な解答を出し、愚かにもそれを忠実に実践してしまうことで、私は完膚なき敗北を喫したのだ。留年が決定したことが敗北なのではない。説明への誘惑に屈したこの惰弱な精神に甘んじ続けたことが、そして不条理の要請を顧みずに自分の現在に狎れてしまったことこそが敗北なのである。そうだ、苦痛をもたらす世界への挑戦を諦めた私は、既に私自身に負けていたのだ――。こうした逸脱は、実のところ不条理を王座に据えて自己肯定を行うかのシェストフと全く同じ道筋であることがお分かり頂けよう。また、不条理に神性を置いて崇拝することで絶望を希望へと反転させる、あのキルケゴール的なぎりぎりのところでの論理からの逃避と類似していることも明らかだろう。梶井基次郎がその意図とは無関係に造出した精神の傾斜としての陥穽とは、実のところ飛躍を旨とする実存哲学的同意の兄弟に他ならないものだったのだが、私はそれと知っていたにも関わらず自滅したというわけである(現在は、この堕落状態ときっぱり袂を分かつべく、過去の人生の清算も兼ねてこの読解文を執筆している)。
 このように、たとえ不条理の要請を知り尽くしていようとも、人はかくも打たれ弱く怯懦であり、それゆえにあっさりと飛躍や希望に逃げ込んでしまう。つまり、怠惰に甘えることで、守りつづけることがむつかしい教訓を破棄して、究極的な幻想に身を投じてしまうのだ。私の経験にもある通り、特に、なにかを説明しているという幻覚がおのずから生まれ、そのため結論を下さざるをえなくなるような作品――小説――において、その脅威は無視できないものになるだろう。というのも、小説は冷徹な視線でもって意識をその深淵まで覗きこむことを最も得意とするばかりか、その真骨頂は思考と創造、つまり哲学と芸術が未分化であるところにあるからだ。これによって現実の模倣にかつてない成功を収め、類を見ない説得力と傾斜へのいざないを有すに至ったのである。したがって、異様な存在感をもって待ち受けるこの蠱惑的存在もまた格闘すべき対象になろう。

説明への誘惑がこの上なくつよく迫ってくるこの小説創造の過程で、この誘惑を乗り越えることができるのだろうか。この小説という虚構の世界は、現実世界の意識がこの上なくつよく働く世界だが、そのなかで、はたしてぼくは不条理への忠実な姿勢をつらぬきつづけ、結論を出したいという欲求に身をまかせずにいるということができるだろうか。

これが私たちの取り組むべき最後の疑問である。いかなる幻想にも動じることのない、人間の相貌へと到る中庸の道とは果たしてどのようなものなのか、今こそそれを知らねばならぬのである。だが、この最後の論証にはただひとつの反例さえあればいい。すなわち、不条理からの条件が挫折せず、また幻想が入り込む余地もなく見事に退けられている小説を見つけ出せばいいだけの話である。なぜならば、明徹な意識を重んじるそうした小説は、不条理をその原初的状態において保っている人生が存続しうることのなによりの証明であるばかりか、飛躍をいっさい認めずに明証的であるところだけを頼りにして意識的に生きてゆく際の確かな主軸となり大きな参照項となるからに違いないからだ。もしそのような小説を書ける者がいるとしたら、その者は間違いなく哲学者的小説家であろう。それは、かれらが徹底的に飛躍を避け、また綿密な論証力を備えているからではなく、むしろ、

論証という形式を用いず、むしろ映像によって書くことをかれらが選んだということは、まさしく、その思考が、――いかなる説明原理も役にたたないと納得し、感覚で捉えることのできる事物の外見は学ぶところ多いものを伝えてくると確信している思考が、かれらに共通しているということを明らかに語っている

からである。なにしろ、哲学者的小説家は世界や人生の解明に絶望しか感じていない点で、私たちが否定する精神態度や誘惑を除去することに完全に成功しているのだ。この事実にあやかり、かれらの小説を意識の主軸に据えることで、作品による幻想の妖惑に以後は堅忍不抜にして強固な精神でもって鎧袖一触のごとくに打ち克ち続けようではないか――。そんなわけで、検討に当たっては、あるひとつの的確な例、あるひとつの主題、創造者の誠実さの一例があれば充分であろう。それは、ドストエフスキーの「悪霊」である。それでは見ていくことにしよう。