ウォー「回想のブライズヘッド」

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

かつての英国へのはかない郷愁と弔意とを苦々しくつづったこの小説は、おそらくカズオ・イシグロの「日の名残り」とその心象風景を共有していると思われる。けれどこれはまぎれもないキリスト教文学であり、作者自身も認めるその古い価値観が、ほとんど敬虔的とも言っていい繊細な感性に抱かれつつ自らの崩落を意識しなければ、決して書かれることはなかっただろう。
ここでは、邸宅専門の画家として名を売ることになるチャールズ・ライダーと、滅びかけた上流階級一族の最後の令嬢であったジューリアの二人が作者の声の依り代となっている。その底層に流れる、宗教への追慕、あるいは前時代への追憶の感情は本質的には同一ではある。しかしながら、死に瀕したジューリアの父への祈祷をめぐり、そうした情感を受容する態度が対照になって表れるに及んで、両者の関係がそれだけに留まらないことが明らかになる。かれらは引き裂かれた声の片割れであり、ある特別な鏡像的関係――映画「パリ、テキサス」のシーンで、鏡に映る顔が重なりあうように――にあるからこそ、愛の成就はついに不可能だった。つまり、ライダーとジューリアとは、互いが自己の写し鏡であると同時に、双方にとって他方があの旧かしき前時代の象徴でもあった。「角縁の鼻眼鏡を掛け、入れ歯をきらきら光らせながら、ねっとりした手で握手するセールスマンたちが横行できる時代」以前の、旧態とした想像力の時代。二人をかろうじて繋ぎ留めていたのは、季節の変わり目とともに融け去っていく残雪への祈念にも似た想いであり、その意味でかれらはやはりキリスト教徒だったのである。

雪崩が落ちてきて、その跡の山肌が露わになった。最後のこだまが白い斜面の上に消えて、谷底にできた新たな雪の山が静寂のなかできらきらと光を放った。

真に悲劇的なのは、美しい雪の覆いが溶けきった後、すさんだ裸の山肌にこのような澄んだ感覚が取り残されたことではない。敬虔な感受性がただひとつ可能性を発揮できたことが、その知性によって時代を批判し乗り越えることではなく、むしろ新時代の風俗に絡めとられ、来たるべき体制に迎合することでしかなかったことだ。前時代の人間はこうして滅んでいく。