ルソー「人間不平等起源論」

人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

ルソーにとって人間の本質とは、自然状態における無垢の善良さではなく、安楽を確保し、欲求を満たそうとする生活の<改善能力>にあった。この卓越した能力と合わさり、何らかの忌まわしい偶然が堆積することを通して、人間はその原初状態から社会化への一歩を踏み出し、固有の歴史の時間のなかを歩み始めることになる。しかし、本来は不必要で余計なものですらあった、さまざまな欲求と自尊心および利己心を不可避的に招来するにおよび、歪められた欲求が悪とともに徐々に肥大して、ついには専制的な圧政のもとに人民が打ちひしがれるとき、その文明の悲惨は筆舌に尽くしがたいものとなる。

ルソーは、人間の自然状態を手放しに賛美することで、文明の起こりと社会化が、人間に決定的な頽落をこうむらせた絶対悪であると非難することはしない。社会化とそれによる人間の安逸の達成はつねに段階的に発展するものであり、同時に、悪もまたそれと並行して肥え太ってゆく。したがって、何であれいっさいの社会状態を裁き、社会秩序はそこに腐敗をもたらしたにすぎない自然状態がより偉大であるとするディドロの立場と、ルソーのそれとははっきり異なっている。重要なのは、あるひとつの社会には、その社会固有の<改善能力>の成果が反映されているとともに、この人間の力によって、弱い人間を暴力的に支配させ、その財産を不当に奪わせるような、その社会固有の欲求の歪みもまた導入されてしまっているということなのだ。そしてこのことは、人間の社会状態にともなう悪が、これら自体、社会状態に固有のものかどうかという視点を提供してくれる。レヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」で述べるように、悪弊や犯罪の背後に探られるべきは、失われた自然状態からの墜落ではなく、人間社会の確乎たる基礎なのである。

このようにして、ルソーはライプニッツの予定調和説に与することを拒否する。なぜなら、調和説はこの世が「大いなる全体の善」の実現と考えることで、人間に潜在している<改善能力>を無視するどころか、物事を改善するという概念すら無効にしてしまうからだ。この意味でルソーは漸近的社会改良主義者であったとしても、かれは決して進歩の熱狂的な信奉者ではなかったし、まして自然状態の礼賛者でもなかった。ルソーの思想のこの現代的な側面により、レヴィ=ストロースはかれを「哲学者のうちでもっとも民族学者だった」と評価する。それは、進歩の事実を過小評価することなく、また、現在あるいは過去の、どこそこの社会に優等賞を与えることもなしに、次のような価値ある認識をもつようにわれわれを向かわせるからだ。

生きられる社会を作るという一つの仕事にしか人間の努力が向けられていなかったとすれば、遠い祖先を動かした力は、相変わらず存在している。何も手は打たれていず、われわれには、すべてをまた始めることが可能だ。――「悲しき熱帯」