贖うホメロス、盟約するウェルギリウス 1.

目次


◆ ざっくばらんな要約
◆ 前書き
◆ ギリシア悲劇における供犠の性質
◆ 『ガリア戦記』における契約概念
◆ 『アエネーイス』における契約と贖いの性質
◆ 結語・ウェルギリウスにおける情念の頽落

◆ ざっくばらんな要約


1. 古代ギリシア悲劇で描かれる人間には、贖罪と復讐が入り混じった情熱というものがあって、これは正義と呪いの二つの意味をもっていた


2. 時代が進んで、古代ローマの『ガリア戦記』では互酬関係(贈与経済)が衰退して、ただ一度きりの契約という考え方が支配的だった


3. 同じく古代ローマ叙事詩アエネーイス』も、ただ一度きりの契約という考え方に縛られていた


4. ただ一度きりの契約という考え方は正義と呪いを区別してしまった。それによって『アエネーイス』では人間の情熱の深い意味と可能性が失われてしまった



◆ 前書き

私がこれから述べようとするのは、口承伝統を引き継ぎ、その影響を色濃く残していた古代ギリシアの悲劇やトロイア戦争を題材とする膨大な叙事詩群を取り巻く想像力から隔てるものとして、脱呪術化された「人の法」が『アエネーイス』において、人間の熱情を非・理性的なるもの、正義を堕落させるひとつの不当な脅威として矮小化し、古代ギリシアが連綿と受け継いできたその高貴さを頽落させたということである。このように書くと、古代ギリシアにおける贈与経済から古代ローマにおける商品経済という、経済構造の質的変化を主題として、二つの時代における文芸作品をその厳密な対応物とみなしているように響くかもしれない。実際、本批評の執筆をかなり進める途中まで、私はこの素朴な図式にはまりこんでいたと告白せざるを得ない。しかし、それが事実としても批評の方法としても過ちに満ちたものではないかという疑惑におよんで、文芸作品の中心的モチーフとしての贖い、呪い、契約とは、その文芸作品が展開する内的宇宙との関連においてのみ解釈されるという決定的な留保をつけることにした。これにともない、『ガリア戦記』における契約概念を検討する章の位置づけが失われてしまい、このことが余計に混乱を生み出しているようにも思われるのだが、いまとなっては残置する他はない。
それだけでなく、私がここで試みたことはまったく不完全であって、構成にいくつもの綻びが見られるばかりか、展開の決定的な場面において、まさにその展開のためだけに飛躍を犯してしまった可能性を認めなければならない。にも関わらず、ここで開陳されている『アエネーイス』に関するひとつの洞察に対して、私自身が無碍にすることができないのは、文芸作品を読みこむときに私たちがみずからの読解によってつねに働かせているところの、異化作用というものが文芸作品の本質でもあると信じているからである。そしてこの異化作用は、ウェルギリウスギリシアの古典を読みとくときにもせわしなく働いていたにちがいないのだ。



◆ ギリシア悲劇における供犠の性質


まず始めに、ギリシア悲劇およびホメロスにおいて共通して見られる供犠、贖いの性質について記述していく。その前に、流血をともなう生贄の儀式の原点について一言述べなければならない。


供犠は何よりもまず神への奉納であり、それを通じてのひとつの契約の樹立と一般にみなされている。しかし、バタイユに言わせれば、生け贄の儀式とは人間がみずからに課した、動物性を否定する禁止というものをみずから進んで侵犯する行為を原点としていたのである。太古の人間は労働という要請のために、死と生殖の過剰な戯れとしての動物性を禁止することによって、めまいを惹き起こすような生の運動を拒絶しようとした。それでいて人間は、再生と死が織りなす巨大な眩惑の深部を開示させるため、あるいは動物性という横溢する性と死の不安を乗り越えるために、流血をともなう動物供犠という侵犯を通して、暴力に発する動物の聖性に近づこうとする。このとき、

人間がある意味で動物性と協和すると、その瞬間から私たちは侵犯の世界に入り、侵犯は禁止を維持しながら動物性と人間の統合を形成するのだ。私たちはこうして神的な世界(聖なる世界)のなかへ入るのである。 (『エロティシズム』)

死にまでいたる不安でさえ欲することで、人びとは不安を乗り越える可能性を死と破滅の彼方に見出そうとする。ここにおいて、供犠の名のもとに動物性に捧げられた限定的な侵犯がいたりつく、死の部分的な開示が返礼として人間に法の秩序を継続させる。しかしこの血の暴力とは、人間の意識における禁止がその本来の意味を保つために人間に贈与された衝動によってあらかじめ動機づけされていたものなのである。供犠とはそれ自体の反復が前提されることで初めて有効となるような、禁止と侵犯の絶え間ない往復運動の結節点に他ならない



ギリシア悲劇において描かされる贖罪のモチーフが、供犠のこうした原初の位置づけをよく保っているだけでなく、人間をその悲痛な円環のもとへと暴力的に繋ぎとめるものとしてしばしば主題ともなっていることは注目に値する。その好例として、アトレウス家の呪いの連環を題材にしたいくつかの悲劇における呪いの連鎖と、ホメロスイリアス』における贖いのテロスの不在という特質を挙げることができよう。


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アイスキュロスによる『オレステイア』三部作は、アトレウスから発するアガメムノンの一家にまつわる不義と復讐の応酬を描いた一連の物語である。第一部の『アガメムノーン』では、実の娘イピゲネイアを生贄に差し出したアガメムノンに対する深い復讐心から、かれの后クリュタイメストラ娘のための正義にかけても、アテ―女神と復讐女神らにかけて、その神々へと夫を贄に屠るさまを描く。クリュタイメストラは夫殺しの不義を犯す者でありながら、彼女の復讐の成就は願いを果たさすゼウス御神の神慮であり、彼女の右手の所業でもって身を果たされた正義の工匠の所業がもたらした結果である。母クリュタイメストラの復讐女神への贖いはしかし、オレステスにとっては父アガメムノンの許さざるべき謀殺とおそるべき瀆神にしか映らない。そしてこのオレステスは、アポロン神の「金銭では償えない咎に激しい怒りを沸き立たせろ」という力強い託宣にしたがい、第二部の『供養する女たち』において母殺しの大罪に手を染めることになる。かれはこの断行により、驕り高ぶる不実の者を墓前の贄に捧げるものの、第三部の『慈しみの女神たち』ではそこから一転して、母殺しの不義を絶えずなじり、呪いをねじこもうとする復讐女神エリニュスの怨念によって、贖われるべき罪人となってしまう。だが、オレステスの仇討ちが、デルポイの神託を敬虔に順守し、アトレウス家が再びゼウス神に贄牛を奉納できるようにかれが願ったことから発されたものである以上、それは同時に犯した罪に流れた血潮を洗い清める新しい正義の裁きでもあるわけである。
そして、この呪いの連鎖の発端であったはずのアガメムノンにしても、長女を生贄として屠ることは祖国の正義にかなうことであると、少なくとも外面的には信じていた。占い師の託宣は、ギリシアの軍勢を駐留地から出立させてトロイアの砦を落とすには、イピゲネイアを女神アルテミスへと犠牲に捧げなければならぬと告げていた。エウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』では、アガメムノンは当初、娘を殺す非道を目前にしてたじろぎ、苦悩する者として描かれる。しかしかれは、祖国の正義および身内の安全という大義と、ギリシア軍の総大将になるという凶猛な野心の、相反しながらも混じり合う二つの奔流にあっという間に飲みこまれてしまう。正義なのか野望なのか自身でも判別のつかない情念に囚われたなかで、かれは妻の哀願すら寄せつけずに娘を生贄に差し出す呪いに手を染めるのである。


呪わしい贖いの永劫とも思えるこうした反復は、ホメロスの『イリアス』においても垣間見ることができる。そこでは、「怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの――」という冒頭の句に見られるように、「アキレウスの怒り」が作品の主題とされた。しかし、それはあくまで形式的なもので、アガメムノンの罪過と呪いの始まり、およびパトロクロスアキレウスをめぐる咎と憤りのもたらす死の連鎖がくり返し言及されることで、怒りという普遍的なモチーフが決してこの叙事詩トロイア戦争の枠内だけで閉じるものではないことを強く予期させているのである。すなわち、半神半人のアキレウスの怒りはアガメムノンの捧げ物によって贖われるべきものであると同時に、トロイアより帰還後のアガメムノンにはクリュタイメストラの手にかかって贖罪の生贄となる運命がアルゴスにて待ち構えている。また、アキレウスは、愛するパトロクロスを倒したヘクトルに仇討ちをしてパトロクロスに生贄を捧げんと憤怒に燃えるのだが、かれはその咎として自身の生命をアポロンに差し出さねばならなかった。そしてパトロクロスの死とは、神の子であるアキレウスのみが身につけるべき武具をそれに値しない者が被ったことで招来されたものである以上、いわばアキレウス自身が下した咎めだったのである。たとえ最終的に行き着くはずのテロスに向かって主題が進行しようとも、咎めと贖いのモチーフは叙事詩のなかの人間たちを過酷な運命の輪のもとに力ずくで組みいれ、主題の枠をはるかに飛びこえて止むことのない供犠へと駆り立てる。


私は、こうしたわずかの例示から一飛びに帰納してしまうことで、紀元前五世紀以前の古代ギリシア人における、生贄や贖いと深く結びついていた想像力というものを一般に論じようとは思わない。そのような議論をおこなうには、ある特定のジャンルの文芸作品のみを取り上げることはあまりに偏っていると言わなければならない。それに、たとえこの問題を避けることができたとしても、文芸作品において描かれる人間たちを取りまく詩的想像力が、当時の社会的慣習に拘束されたもので、その直接的な反映によってもたらされたとする見方は、あまりに馬鹿げた飛躍というものである。私が例示によって示唆しようとしたのは、これらの作品が成立した当時の社会経済制度や文化の内実ではない。そうではなく、中心的なモチーフとして作品の精神をかたどり、人間を猶予のない情感の渦のなかに封じこめるひとつの宇宙としての贖いの行為が、いかなる固有の位相とともに人間をひとつの行動へと掻き立て、それにより、みずからの主題を織りなしてゆくように作品を導くのかを問いたかったのだ。そして、このように適切に限定された条件において、生贄や贖いという詩的主題に瀰漫する、古代ギリシアがまだその残滓を保っていたところの、ある種の熱気というものに接近することは可能であるように思われる。


それは第一に、贖いの正義と呪いの恐ろしいまでの両義性ということである。なるほどアイスキュロスの作品の背後には、人間のおごりに対し、至上の罰をもって厳しく接する神の、揺るぎなき終極的な正義の揺るぎなさが、常に屹立している。しかし、正義によって断ち切られるべき呪いの連なりとは、そのひとつひとつが、呪いの犯した咎の贖いを企図していた正義であったものなのだ。劇中における神話上の人物は、呪いの連環を閉じてしまおうとする試みそれ自体が呪いを招くような、陰惨な運命の大きな輪のもとに囚われている。みずからが正義を担っていると確信しているときでさえ、止めどなく湧き上がる抑えがたい義憤が煙のように人間の分別を覆い隠して、かれらは呪いの応酬にひとつの清算をもたらす望みに盲目となってしまう。そして、このどす黒い憤怒の情こそが、神々への敬虔な贖いであったはずの行為を忌まわしい呪いへと変質させるのだ。したがって、かれらは内側に宿る抗しがたい狂熱的な力に衝き動かされながら、避けることの許されない贖いの円環の一員に名を連ねようとみずから飛びこんでゆく者でもあるのである。このことを端的に示すものとして、親友パトロクロスに殉じることもいとわないアキレウスの発する言葉は、この上なく峻厳に響くことだろう。ヘクトルはその死に際に、自分を討ったことでアキレウスが神々の怒りを買い、やがてアポロンとパリスに討ち取られるであろうことをかれに告げる。そしてアキレウスは息絶えたヘクトルに向かってこう返答するのだ。

死ね、わたしはゼウスを初め他の神々方が、それを果そうとなされた折には、わが死の運命を甘んじて受けよう。

アキレウスはその激情のさなかにおいてわが身の破滅を神々への贖いとすることで、ヘクトルの死をパトロクロスへの贖いとする。そしてまさに贖罪と復讐が渾然一体となったこの横溢した熱情こそ、正義と呪いの両義性の意味するところなのだ。
第二に、神話上はおろか、地上の人間のだれ一人として神々の怒りを鎮める供犠の対象からあらかじめ免れることが許されていないという凍りつくような酷烈さがここにはある。たとえ半神半人の人間であろうと、神の怒りに触れたものは例外なく正義と呪いの両輪に容赦なく絡みとられてしまうであろうことをこれらの悲劇や叙事詩は厳かに宣告している。罪を贖うべく生贄をひとりの神に捧げれば、それ自体が罪となって即座に別の神の怒りを招来することだろう。この血で血を贖う犠牲の累積には、絶対者の最終的な裁定、あるいは綜合的な契約による均衡というものが本質的に存在しえない。ここで認められるものとは贖いの一方的な贈与か、復讐という名の返礼のみであり、これが尽きることのない罪の負債を生み出しているのである。


(続く)

*1:ブグロー『復讐の女神たちに追われるオレステス』。「神話上はおろか、地上の人間のだれ一人として神々の怒りを鎮める供犠の対象からあらかじめ免れることが許されていないという凍りつくような酷烈さがここにはある。たとえ半神半人の人間であろうと、神の怒りに触れたものは例外なく正義と呪いの両輪に容赦なく絡みとられてしまうであろうことをこれらの悲劇や叙事詩は厳かに宣告している。」