クッツェー「鉄の時代」存在という恥、逃避という恥辱

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)


アパルトヘイト末期の騒乱が吹き荒れるケープタウンに残された死にかけの老女は、恥・恥辱という言葉にまつわるスティグマの心情を繰り返し語る。孫とともにアメリカに住む愛娘の元へは決して赴こうとせずに、恥の淀んだ滞留の中に死を待ちながら。なにに対する恥か。「面目を失う」という意味での存在の外皮――存在者――に向けられたものではない。照射される存在、恥の一部であり、恥がその一部であるような存在に向けられたものだ。

ひょっとすると、人は今後そんなふうに生きなければならないと、ただ受け入れるべきなのかもしれない――恥にまみれて生きることを。ひょっとすると恥というのは、私がいつも感じている、その感じ方の名前にすぎないのかもしれない。死んだ方がましだと思いながら人が生きている、そんな生き方につけられた名前なのかもしれないわ。

徹底的に練り上げられたこの感覚は、容易には理解できない。というよりも、世界から隔離する外皮の肥厚が妨げとなって、不鮮明に鈍化された境界線がそれを拒む。本書から引用するならば、ちょうど「眼球がふたたび濁りはじめて、そのうえに分厚い鱗が生えるところ、土地探検者たちが、植民地開拓者たちが、深海にもどる準備をすすめている」ように。でも、実際そうなのだ。惰性と忘却に爛れた私という内質は、老婆の切迫感に触れる透徹な視力を取り戻す(いや、かつて持った試しなどあったのだろうか)には不分明すぎる。私は現実に、深海が与える無重力の無責任に甘えているのだ。


だから、ここでは類比的な想像力に頼ることでかろうじての接近を試みることにしよう。この本を読んでいるあいだ、絶え間なく何度も何度も湧き上がってくるあるリアルなイメージに私は戦慄し、それに丸ごと連れ去られてしまう孤絶感に晒されては悶絶したのだが、その心像が二義的な名残や曖昧な手持ち無沙汰が惹起させたものではなく、アナロジーの論理に則った確かな衝迫であることに気づくにはしばらくの時間が要った。つまり、老女と恥の関係とは、私と黒板を引っ掻く爪の感触のそれと同じなのである。爪先が削り下ろされる絶望感は神経を通って腕から肩、肩から胸にせり上がり、あっという間に頭の中をがんじがらめにする。心臓は締めつけられ、身体は収奪の恐怖に縮み上がり、傍白が私を占める。ぎぎ、という接点からのずれが感覚を遥か彼方へと運び去り、言語を絶する威圧がうそ寒い空無に取って替わる。そして、触感とそこから枝分かれした五感のすべてが眩さそのものである白光と化して私を波のまにまに浮かび上がらせる。存在が爪先の感覚に照らし出されるのである。さもなければ、故意に感触を自己から剥離させ、その鈍感さで自制力を保ってもいい。その代わり私は私の参照項を対象化し、所有することで、「世界とおのれの内面を隔てる膜の肥厚、鈍さとなった肥厚」を作ることになる。ケープタウンの残酷で蒙昧な人々と瓜二つの、眼球から分厚い鱗への退化。


黒板から手を離せば、ぎりぎりの綱渡り(それも、左右に転げ落ちつつの)から解放されることができよう。しかし、余命いくばくもないこの女が、その境遇ゆえに爪で引っ掻き続ける責務へと自分を追い込んでいたとしたら、果たして選択の余地はあったであろうか? 存在の審級と主人を争う仮借ない対立のさなかにあって、せめて立ち位置だけは見定めようと、被膜で乖離することによってしばしば感覚を瞞着せざるを得なかったとしたら――? 彼女は償いきれない負い目とともに、恥の隠蔽に対する恥辱をも覚えるだろう。恥辱とは、恥を覆い隠す存在の外皮に向けられた、審級への罪悪感、つまり尊厳の喪失なのだ。アパルトヘイト体制下での特権的知識人=白人としての烙印、すなわち恥と正対できずに存在から逃避したこと、それが彼女の屈服であり、屈辱であり、断罪である。

屈服してほっとすると、不意に人生が見慣れたものになる。ほっとして、ふだんの暮らしに自分を戻してやる。それに溺れる。恥の感覚をなくして、子どもみたいに恥知らずになる。その恥知らずという恥辱感――それがこの頭から離れなくなって、それからというもの、耐えがたいものになってしまったのよ。自制力を失うわけにはいかない理由は、それ。自分の行くべき道は自分が指示する。さもないと自分の位置がわからなくなるから。理解できる?