ツィンマーマン「フランシス・ベイコン<磔刑>」

フランシス・ベイコン 磔刑―暴力的な現実にたいする新しい見方 (作品とコンテクスト)

フランシス・ベイコン 磔刑―暴力的な現実にたいする新しい見方 (作品とコンテクスト)

  • 作者: イェルクツィンマーマン,J¨org Zimmermann,五十嵐蕗子,五十嵐賢一
  • 出版社/メーカー: 三元社
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: 単行本
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フランシス・ベイコンは、ニーチェに思想的影響を受けながらリアリズム・実存的な具象画を描き続けた、20世紀を代表する画家だ。その作品の多くには、断末魔の叫びが聞こえてくるようなカッと口を開いた人間の表情が描かれている。また、顔面を極度に捻じ曲げ歪曲させた、キュビスムを思わせる画風が特徴的でもあるが、なにより、得体の知れない肉の塊のようにしか見えないグロテスクな化け物が鑑賞者に激烈な印象を与えて、有無を言わさず射竦めてしまう。混沌に満ちた入り組んだ肉体には思わず目を背けたくもなるだろう。しかし、それこそが「現実の暴力性」に気づく瞬間であるとベイコンは言う。認識は世界の一側面に過ぎず、だからわれわれが世界に目を向ける際の偏見のベールを一枚一枚取り払うために具象絵画が必要とされるのである。
さて本書では、おぞましいモンスターを中央に配したミュンヘンの<磔刑>をめぐって、作品における各構成要素の表現形式や、加えられた独得の異化に定位しつつ、「解釈の可能性」が慎重に、冷徹に吟味されている。ゆえに、統一的な釈義や主張の考察などにはいっさい踏み込まれることはなく、あくまで読者に委ねられているのが、ベイコンの重視する作品の多義性と協奏をなしていて興味深い。その中でも、可能性の幅を広げる、あるいは可能性の門口に立つにあたって最も核心的と思われる事項として、やはり宗教画、それもキリストの磔刑図との密接な連関は欠かせないだろう。そこで、以下ではこのことに言及した第2章と第11章に的を絞り、二つの視線のもとに<磔刑>のモチーフの周縁を照らすべく私流にダイジェストしてみようと思う。


1.トリプティク的配置の解体

トリプティクとは、三連祭壇画ともいい、主題を中心に配置した3枚1組の伝統的な宗教画を指す。時間的・空間的に相互に関連し合って読まれる絵物語の形式を取っており、例えばザンクト・ランブレヒトの「祭壇背後の飾り窓」であれば、十字架を背負うキリスト、磔刑に処せられるキリスト、天使に見守られる絶命したキリストの3枚が連なっている。この場合、時間的順序によって物語的に左から右へと読み進めることが可能であるが、それに加えて「人類の救済のための犠牲」という暗黙の「ストーリー」は必然的に2枚目のパネルに重点を置かせる。キリストという空間的同一性が、3枚の絵画を緊密な結びつきのもと一枚の宗教画へと昇華させるのだ。
ところで、ベイコンの<磔刑>の構成は一見すると空間的にも時間的にも齟齬が見当たらないようだが、細部に目を凝らしてみると、かなり明確に「断絶」が意図されていることが察せられる。このことは、キャンバス相互が空隙に隔てられていることからも分かるが、中央と右の絵画にまたがる肘掛けの位置が空間的にズレているのがまさしく決定的であろう(左上*1)。まるで統一性が見出せない怪しげな3枚画は、確乎たる「ストーリー」を与えられることなく、分離され、断ち切られたまま浮遊しているのだ。私たちはこれを右から左へと読むことも不可能ではないし、左と右を連結させて解釈することも自由である。訳者は巻末において、肉塊を、世界を救えなかったキリストに見立て、そこから作者の「キリストに対する失望と告発」を洞察する。しかし、それとて絶対ではない。右のパネルに佇む二人の男性や、左のパネルに姿態を見せる蠱惑的な女性をただの「傍観者」と片付けるだけでは済まされない緊迫感がここにはある。関係性は絡み合い、しかも表現が同一箇所に重複する。表現空間のあらゆる全てが未決定のまま保留され、統一的解釈はいつまでも延期される。解説を求められて作者はこう応じる。「ぼくはなにも語らない」。


2.磔刑の批判的継承

第二の視座については、第一の知識に合わせて近代美術史の素養も要求されるかもしれない。つまり、近代芸術とは宗教的なテーマを描くことに根本的に不信感を抱くことから出発しているのである。これは「歴史の終焉」という事態と決して無関係ではなく、ベイコンもまたこうした伝統の失効どころか、「人間の終焉」にさえ極めて自覚的であった。しかし、今はひとまず近代に入っての磔刑の意味合いの変遷についてまとめよう。かつて、磔刑というこの上なく残酷な刑罰とは、そのまま「救済」であり「犠牲」であった。だが、視点を変えればそれはユダヤ教への不法に過ぎず、異宗教による相対化もまた免れ得ない。そして、日本を含め、現代の物質文明が世界の遍く西欧化に他ならないとすれば、真の芸術にはキリスト教の影響を受けて伝承されてきた世界像に対する批判の反映という性質を必ずや持つことはお分かり頂けよう(右上*2)。とりわけ錯綜とした現代において、そこには、「歴史の危機」への意識のもとでの仮借ない異化が要請されるのである。とは言いつつ、「歴史の終焉」の状況のもとで特定宗教の文脈に寄りそうこと、この行為は明らかに自家撞着ではなかろうか。確かに、この矛盾には微塵の言い逃れもありえない。すなわち、「真の芸術」、それは永遠に不可能なのだ。
にも関わらず、ベイコンは<磔刑>において臆面も無く伝統的規範に依拠する。そして、則りつつ内部から侵食するかのごとく外皮を破壊し去ってしまう。思うに、これこそがリアリズムの特権であり、彼が「絵画は外見と等価物である」という考え方に固執し続けた真相であろう。ここで言うリアリズムとは、従来の写実主義からは明らかに逸脱している。そうではなく、既存の合理的な記号に対する非合理的な記号*3が神経組織にじかに飛び込み、知られざる知覚の領域を開拓するという意味合いにおいて、彼の絵画は現実を超えるリアリティに到達するのだ。現実の容貌は幾度も塗り替えられ、私たちはそのたびに無限に後退しながらも着実に真実へと肉薄するにちがいない。ただし、ベイコンを鑑賞する者にとって、そこには歪みきった暴力への嫌悪と吐き気が常に伴なうのである。


最後に、著者が作者に対する鋭い指摘だと認めるところの、スティーヴン・スペンダーの炯眼を引用して拙筆の要約を終えることにしよう。フランシス・ベイコンの迸るリアリズムについて、興味を持つ人が増えれば幸いである。

ベイコンの絵画は、人間は自分の立場を「苦しめる者とも苦しめられる者とも認識しない」かぎり、結局は「みずから十字架に架けられる者」となるということを示しているのだろう

すなわち、<磔刑>の肉塊とは、私たちにまとわりついたこの肉体そのものであるという深刻な提議であり
同時に告発であるという解釈である。

*1:これは作品の3つのパネルのうち、中央と右のものである

*2:レオン・フェラーリ磔刑になったキリスト」

*3:「合理的」「非合理的」という語は本来適切ではないが、ここは本書に従った