モーム「雨・赤毛」

雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)

雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)


二階に上がって、秘めやかな悦びに浸るのもつかの間、目を離した隙にいつの間にか梯子が外されている――。ここに収められている3つの短編のいずれもが、そんなくすんだシニックとともにあっけない幕切れを迎える。読者は、自分でも驚くほどの高さに連れ去られてしまったことに今更のように気づき、地上との落差にたじろがざるを得ない。


これは小説の担い手にゆくりなく訪れる悲哀とも重なる。手の内にあると無意識のうちに思っていた状況が、ある刹那するりと指から抜け落ちるとき、面妖な、目を覆いたくなるような己の真実が掌上に露見してくる。なんという醜悪な、なんという破廉恥な皮算用だ! 俺はこんなにも生に対していぎたないツラを晒していたというのか! いつだってこれは残忍な発見、それも、発見が宣告する事態さえもが残忍だ。振り返ったときにはもう全てが手遅れ。見事に空転するガラクタとともに取り残されて、人は自身のあまりの卑小さに途方に暮れるのである。


畢竟するに、人生とは絶えざる梯子外しなのだろう。顧みては歯噛みをし、見下ろしては咽ぶ。そして、上に繋がる梯子を目にしては、また心ひそかにほくそえむのだ。しかも、私たちは自らの表情に気づきもしていない……