フェルナン・ブローデル「歴史入門」

歴史入門 (中公文庫)

歴史入門 (中公文庫)


アナール学派の総帥とも言うべき、ブローデル自身による主著の大まかな内容を紹介するための講演をまとめたもの。平易かつ端的な文章で世界史の独得の解釈を経済史の面から解説している。が、独自のニュアンスを込めて著者が用いる「物質生活」「市場経済」「資本主義」の示すところ、その互いの関わり合いなど、基本的な予備知識がないとおそらくろくに理解できない。私自身も読後にネット上の書評*1を読んでようやく納得がいった。
つまりこれらは入れ子的な三層関係にあり、持続的な下地のもとに特定の諸条件が整うと、発展形態である「市場経済」や「資本主義」が順次発生するというわけだ。だから、マックス・ウェーバーの主張する、「営利の追求を敵視して禁欲に励むピューリタニズムの経済倫理が逆説的に前近代から近代社会への移行を準備した」というような西欧中心主義的な説明はここでは棄却される。

北ヨーロッパ諸国はただ、それ以前に、長きにわたって繁栄し続けてきた地中海沿岸の資本主義の古い中心地が占めていた地位を引き継いだだけなのである。

したがって、高次段階への上昇を阻む諸々の堅牢な障壁が解除されればどこの国でも「資本主義」社会は成立しうるのであり、実際、近世の日本はピューリタニズムとまったく無関係に自力で封建社会から貨幣秩序へと移行していった。「資本主義」とは、先史以来継続してきた「市場経済*2のひとつの条件を指し示す一領域に過ぎず、既存の持続の延長という意味で、実は世界においては非特殊的=普遍的な体制なのだ。
こうした着眼は、西欧が演出してきた数々の近代の特権をいったん留保する考え方を提供するように私には映った。ときとして、現代の社会体制に内包される諸概念の端緒の多くが近代資本主義の責に帰せられる。だが、その恨みがましい一面的な押し付けは、まるで近代主義の訴える特許に寄りすがって駄々をこねているかのようだ。われわれを取り巻く状況はそれほど過去からの断絶を被っているというのか。近代にかこつけて現在の恣意性を強調する言説の裏には、ごくごく単純な悲劇のヒロイン願望、もしくはパースペクティヴな視野を失った傲慢な革命史観が潜まっていないか(ちなみに、自虐とは選民思想の一変種である)。短絡的な自己特権化への欲望はひとまず「長期持続」の観点から見直されるべきであろう。

資本主義は階層を発明したわけではなく、資本主義は階層を利用しているだけであり、それは市場や消費が資本主義の発明ではないのと同じである。・・・・・・換言すれば、階層の問題自体は、資本主義を超えたところに存在し、資本主義をあらかじめ枠付けているのだ。非資本主義社会もまた、階層をなくしはしなかったではないか。・・・・・・階層は、人間同士の従属関係は、打ち壊されねばならないのだろうか?

*1:http://www.tommy.jp/library/0238.html

*2:著者によると、「市場経済」とは、初歩的以上の市場の門をくぐって商品が交換価値を獲得することで、個人あるいは経済単位が生産と消費を仲介することであると定義づけられる。ならば「市場経済」の概念が、たとえばバナナと土器を交換するような太古の原始的な「市」にも適用されることにはなんの不思議もない。