「シーシュポスの神話」を読解する9

(4/3訂正しました)

 次に第二の不条理な人間の検証に映ることとしよう。演劇はあらゆる激情を万華鏡のように映し出す。それは鮮彩な生の発露する場であり、無数の運命が差出される場である。とすればそれを鑑賞することで、仮想的にではあれ可能なものの領域を汲みつくすことができるであろうか? …いや、鑑賞者は人物の体験それ自体に意識を投錨することなどしないし、演劇においてそのようなことは想定されても期待されてもいない。人物の懊悩と同調するあまり自殺した鑑賞者などまずいない(過去に「若きウェルテルの悩み」を読んだ青年が多数自殺した事実があったが、かれらが自己の精神とウェルテルの精神を混同した幻覚妄想者でないことは確かだろう。こうした愚かな取り違えはむしろドン・キホーテこそがふさわしい)ことが何よりの証拠であろう。悲劇を観るとき、人びとはかれらの苦悩を受取るのではない、演じられる人物を生け贄として、苦痛に満ちた運命の放つ甘美で馥郁たる香りを、詩情を受取るのである。つまりカタルシスという代償的形式がそれだ。だから、鑑賞者は人物の経験それ自体には目をつむることによって鋭利な意識をとりあえず脇に置いてしまう――そしてそれは模範的で正しい行為だ――という理由から、先ほどの否定は正当化されるというわけだ。しかし、人物になりきることでその生の全てを感じ取るならば、経験の当事者たる俳優は条件を満たす存在となりうるのである(※)。


※なお、これはカミュも指摘することだが、あくまで可能的だという意味で、俳優一般がこうした要請にしたがっているというわけではない。また、対象としての演劇にしても、カミュシェイクスピアモリエールラシーヌなどの手による「偉大な演劇作品」のみを扱っているようだ。ここでの議論が極めて理念的・限定的なものに終始していることを念頭にとどめておく必要はあるだろう※


俳優は演技する人物と同一化してしまうことがままあるらしい。ひとりの人間がそうでありたいと思っているところとその人間のいまの姿とのあいだには、実は境界は存在しないということだ。とすると、冴えきった意識で捉えられた生を以て、全てを汲みつくす人物になりきることは不条理な人間を二重に生きていることになる。

栄光それ自体に捧げられた栄光、栄光それ自体がみずから味わう栄光

という言葉がそれを端的に言い表しているだろう。ところで、こうした生きざまをかつてのカトリック教会が断罪したというのは非常に象徴的だ。俳優は全生涯を通して幾つもの魂をその身ひとつに宿す。この自己矛盾もさることながら、カミュによれば、かれらの不条理の原点は、俳優の目ざす《いたるところに生きる》と、教会の説く《いつまでも生きる》とのあいだに妥協の余地はないことに発するのである。しかし俳優は、かのアドリエンヌ・ルクーヴルールのように、俳優であるがゆえにこそ、地獄の劫火への覚悟とともににみずからの深い情熱とあらゆる運命の放埒に身を投じてゆく。これは先ほどの「ピュテイア祝捷歌第三」からの引用と同様の意味を含むニーチェの言を地で行くものだ。つまり、

重大なのは永遠の生ではない、永遠に溌剌たる生気だ。

ここでも、不条理な人間は世界と対等に向き合う限り明晰に生き、その視力は彼方に待ち受ける死を全面的に受けとめる。
 そうだ、いかに強靭な人間でさえも、この現実世界において死なねばならぬときがやってくる。死は驚異的な暴力とともに私たちのもとに訪れよう。不条理を捧げ持つ精神が滅び去ると同時に、不条理もまたこの両手からはかなく逃れ去ってゆくのだ。

めくるめく死への転落がいまにも起ろうとするするまさにその直前の地点で、しかもなおかれが数メートル前方に眼にする靴紐、不条理とはそれだ。(p.97)

それまでは圧し潰すかのように畏怖を強要する世界と見事に格闘していた者も、やはり不可避の敗北と究極の挫折が運命づけられている。つまり、私たちは死刑囚である。この残酷な蹉跌、或いは築きあげてきた財産や名誉――そしてそれを享受する自己――の滅亡に戦慄するというのなら、当為はこの上なく単純だ。社会と個人とを天秤にかけて社会を採り、永遠と歴史とを突き合わせて永遠を採り、観想と行動とを照らし合わせて観想を採り、十字架とこの剣を見比べて十字架を採ればよい。超越に懸ける甘美な生はそれで達成されるかもしれない。だが、人間は自分の生きている時間からはなれることはできないことを忘却してはなるまい。人間社会の実相のただ中にあって、戦争や弾圧は十字架を踏み砕き、聖者までが戦争に動員されてきた。現代の爛れるようなだらけた平和もまた、何時までも続くとは限らないのだ。つまり、永遠もまた情け容赦のない実践的場に為す術もなく翻弄され、やがては敗北するということである。しかし、無慈悲の結末を提示されたからといって、途方に暮れて死に怯える日々を送ることになるのかというと、そうでもない。事実、私たちは大して恐怖を覚えていない。なぜならば、一貫して枢要なのは、

敗北に会っても、またかりそめの勝利を味わってもつねにゆるがぬ魂

であることがもはや分かりきっているからだ。一回限りの敗北に立ち直る余地もないほど叩き潰されるか、それとも、じつにとるに足りぬ、みじめな存在ではあるにしても、不屈不撓の意志で以て何度でも蘇るか、選択は明瞭である。不条理を弊履のごとく容易に投げ去ることを拒否し続け、辛抱強く論証を果たしてきた、眼光紙背を徹する勢いのあのまなざし、あの意識。帰結如何によっては自身の生死をも決定づける精神態度の行使を覚悟したときから、既に敗残は明晰に捉えられていたのだ。こうして、いっさいを汲みつくす意識者にとっての死を明らかにすることができた。死とは、肉体の敗北を意味する、とるに足らぬ障害である。それ以上でもそれ以下でもない。死者を死者として受け入れることを拒否する宗教に限って死を特権化するものだが、今や生を強制停止に追い込む障壁としての征服対象にしか見てとれない。死を逆算して生を引き出す愚かな思考も持ち合わせてなどいないし、死に微塵の価値も認めてやることはない。

死は不正義を賞揚するものである。死は至高の誤謬だ。

ただ、それだけなのだ。さらに言うと、「墓地」がすでに死者の霊魂の存在を前提にしている「宗教的施設」である(小林よしのり戦争論2」より)ならば、そうした確実ならざるものはまったく意味をなしえない以上、不条理な人間にとっては墓穴すら無用だということだ。
無様にも崩壊に震え上がる希望の人間と異なり、かれは喪失を恐れない。かれは個人と歴史と行動と剣という実践を愛するだろう。なんのために――? 他でもない、自分のためだ。死刑を命じられていることだけですくみあがり、なにひとつなしえないかもしれない人生を前に尻込み萎縮してしまう軟弱な自分を叩きのめすこと、鋼を鍛えるがごとくに自己の精神を錬磨すること、弱者だった人間がおのれを支配する超越者に対して不断の革命を敢行することこそが生の目的であり、生それ自体である。

サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ
宮沢賢治サキノハカといふ黒い花といっしょに」)

サキノハカとは邪悪な不条理の花であると同時に、「新らしい人間」への「革命」の示唆でもあるのだ。この黒い花を精神の深いところに挿すならば、それは弱い自分を「びしゃびしゃに叩きつけ」させずにはおかないだろう。精錬という言葉は、つねに《自分に打克つ》ということを意味しているのだ。そして「革命」とともに、私たちは、私たちの依拠するこの身体に王国を建てよう。この唯一の確実性を祖国として、ただ一人の力で偉大な生の高みに到達するあの征服者になろう(征服者はマルローの小説に託せられた第三の不条理な人間である)。自己の生、そして死をも支配つくそうとする偉大な王者にである。なにしろ、偉大さは抗議と未来を持たぬ犠牲とのなかにある。サキノハカは征服者であることを示す勲章であり威光なのだ。肉体が死に伏すとき、生涯捧げ持ってきた不条理の花が精神から飛びたってゆくとしても、かれはもはや恐れない――。
……苦渋と辛酸に満ちた道程が待受け、残酷な敗北が私たちを見据えている。しかし、非力な個人はなにひとつなしえないとしても、しかもいっさいをなしうるという境地を私たちは覚悟しなければならない。カミュが栄光の人間を絶対神にではなく死刑囚に喩えた真相はここにあるのである。再掲しよう。

ある朝まだき、刑場へと向けて開かれた牢獄の門をまえにしたときの死刑囚の、あの神のような自由な行動可能性。

神ではないのである。不条理な人間は、神のようであって神ではない。自由な行動可能性が発現したとしても、それは束縛された暗愚な人間を解放するだけで、万能を意味しないのだ。だが、全知全能であるからといってそれがなんだろう? カミュは、無意味に閉ざされた「いっさいは許されている」という広野へと拡がる鉄扉を優しく開放してみせるだけだ。あとは私たちがなにをするかだ。ここに希望は、ない。ところが、絶望もまたないのである。それでいい。

幾つかの極限的な生の相貌が十全に示されたところで、章「不条理な人間」は終わることになる。不条理からの要請を帰納的に検討することから始まり、命題からの演繹的例証を経ることで、私たちは再び元の地点に舞い戻ってくることができた。だがもうちょっと付き合ってほしい。終章「シーシュポスの神話」への最終段階として、まだ「不条理な創造」が残されているのだ。