メルヴィル「バートルビー」内面=偶像を拒むこと

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

本書の前半部分をなすアガンベンの読解や、巻末の解説で収められている既存の批評に頼ることなしに、筆生バートルビーの謎について考えてみる。


かれは「しないほうがいいのですが」といって、筆写した文書を点検する頼みを無下に断る。その言葉を字義的に受け取るならば、かれはただ自分の好みからその仕事を拒むのであるから、かれの顔立ちや外見も合わさってそれは「蒼白な傲岸」に映る。ところが、かれの寡黙かつ徹底的なかたくなさをくり返し目撃するうちに、「しないほうがいい」という言葉は、実のところ、「するべきではない」という秘められた崇高な義務を言い換えた表明ではないかという疑いが、かれを雇う法律家である語り手とわれわれ読者の内部からもちあがってくる。これがバートルビーの挙動と配合されることで、なにかしら「厳粛な自制」という印象を与えるのである。やがて、筆写することも事務所から外出することも、最後には食事をとることすらも「しないほうがいい」と拒みつづけることで、この筆生は監獄の中庭において孤独な死を迎えることになる。そのあまりの痛ましさへの憐れみから、かれの拒みは、それらの行為を単に「しない」のではなく、「できない」という事実の告白、すなわち、それらの行為が不可能であるとする状況へとみずからを追いこんでいたことに由来していた可能性にわれわれの視線が向けられるにおよんで、バートルビーという人間の救いようのない惨禍を嘆く気持ちにさせられるのである。


こうした三様の解釈の試みは実際にはすべて並列に、ときには混じりあって進行されていく。絶えず現状の場所にとどまり続けようとするバートルビーのたたずまいに照射されながら、三つ編みのように互いに入り組んだ読解可能性は、最後にはひとりの人間の不幸に対する深い憐憫の情に収束していくのだが、それにともなって問われるべき謎もまた消失してしまう。つまり、かれの拒みはけっきょく「しないほうがいい」のか、「するべきではない」のか、それとも「することができない」のか、いずれから発されているのかという問いである。当初の疑問を改めてみずからに課すことで、読者は、この人間の肖像が前よりもいっそうの深刻さにみちた謎につつまれていることを発見して、戦慄を覚えることになろう。願望と義務と不可能が他人から、もしかしたら本人でさえ見分けのつかない形でひとりの人間の行為を残酷なまでに束縛するとしたら、その人間の精神はいったいどんなおそるべき力に憑依されているのか?


あるいは、バートルビーの不幸を、ある意味できわめて疎外的なかれの倒錯がもたらした、悲痛な勝利に対してそう呼ぶこともできる。「何も変えないほうがいい」「一つのところにどどまっているほうがいい」という言葉が、かれの人格を構成するいかなる精神的地層から発せられたのかに関わらず、かれの発話が、まさに発話されることで、解釈を呼びこむひとつの位相をみずから選びとってしまうことを、かれ自身は押しとどめることができない。というのも、発話者の内面は、発話の前提とされ、応答の際の手引きとしてひんぱんに参照される役目を負うために、人と人のあいだのコミュニケーションにおいて仮構に設置された、その人間を過不足なく説明するひとつの本質的契機、あるいはそのときどきに応じた、人格の代理物としての地位を占めているからである。
解釈の不確定性において、発話の抑揚や解釈者の内面のゆらぎが反映された、応答可能性への呼び声は、語り手をときとして憤激や歩み寄り、あるいは深い憐れみへ誘う。そうした徴候的読解のすべては、バートルビーの発話内容それ自体を越えて、かれを発話行為へと導いたものが何であるかを説明することで、それを補完しようとする。のみならず、みずからの意味を凝固させることで、逆に、時間をさかのぼって、好み、義務、不可能といった色合いのもとにバートルビーの内面を確定づけようと狙いすます、静かな包囲物ともなるのである。それは奇しくも、この得体のしれない筆生に退去を迫る有力な対抗策であると信じて、語り手が実行に移すところの、なすべきこと言うべきことを「前提にもとづいて打ち立て」るという対人策略と軌を一にしている。この策略とは、実際の状況は異なるのに、あたかもそうである状況であるかのように振る舞うことが、そのような状況をしばしば生み出すという魔力を当てにしたものである。ここにいたって、個人の内面から出発し、コミュニケーションによって互いにそれを参照項として照らし合うことを通して、ある結論なり状況なりにいたるという、意味が決定されるプロセスがまるごと逆順を追うことになるのだが、この倒錯はまさにバートルビー発話行為を取り囲む状況に他ならない。


語り手は、こうしてバートルビーによって味わわされた顛倒を当のかれに対しても仕掛けるのだが、この試みはついに失敗に終わる。内面という名の真理の表象、すなわち発話行為における偶像の設立を拒みつづけることで、バートルビーは不確定性の人間としてその固有の領土を守り切った。だが、コミュニケーションの最後の挑戦、融和の可能性に対しても防御の姿勢をくずさないことで、かれが痛ましい結末を避けることはもはや望むべくもない。発話行為においてそこにあるはずとされる、単一的な意味=内面の周りに鏡面をはりめぐらすことで、この筆生の存在はある種の動物的な気高さにまで到達したのだが、その対価は社会的のみならず、字義的な意味での死でもあったのである。