ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」倒立された主体

ブリキの太鼓 1 (集英社文庫)

ブリキの太鼓 1 (集英社文庫)

わかるでしょう、べブラさん、ぼくはむしろ観客でいたいのです、ぼくのささやかな芸術をひそかに、あらゆる拍手喝采から離れたところで開花させたいのです。

べブラに対する主人公オスカルの言葉は、ダンツィヒの市井の人々や、人間としての生物的・社会的な束縛、そして歴史的条件に対してあえて冷笑的な態度を取ることで、自己を形成する諸々の拘束から自分自身を切断「しようとする」態度を明快に要約している。カギカッコをつけている理由は、偽悪と自己陶酔の入りまじった語りによって、自分を取り囲むものと自分自身との連なりを拒もうと懸命に試みるにも関わらず、かれの皮肉はつねにかれの内側の論理でしか通用しない、アドホックに満ちた不完全なものに終わるからである。例えば、かれは、自分の意志によって三歳で成長することをやめたと主張しているが、かれの家族は(少なくともかれの母親は)、成長が止まったのは階段から転げ落ちたからだと思っている。また、かれは、自分の行為が母親と二人の父親の死を招いたと豪語するが、たとえオスカルが手を下さなくとも、かれの両親は罪の苦しみによって、あるいは悲惨な戦争に巻きこまれることによって、やはり無残な死を遂げていったにちがいないのである。
第二部終盤まで、オスカルは、ダンツィヒの小市民たちに埋もれた一人の奇形児として、差別や悪徳、破壊に関するあらゆる社会的責任から免れた蔭にあって、自己の由来および戦争のもたらした悲劇を、誇大妄想的に引きうける遊びに興じることができた。言い換えると、かれは、ブリキの太鼓のうしろに身を置くことで、自分の主体性を言語の力によって自在に倒立させる、独我論的な「芸術」を開花させ、しかも同時にその「観客」でいることができたのである。しかし、その戯れはソ連軍の侵攻ともう一人の父親の死によって終わりを告げる。かれは首にかけたブリキをはずし、こうしなければならぬ!という義務感とともに、太鼓を棺の上に投じるだろう。そしてかれは労働することを学ぶだろう。だが、逆立ちになったかれの主体性が第三部において迎えることになる変容と新たな展開について、ここで書くことは控えることにする。