ハックスリー「すばらしい新世界」

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

行き過ぎた機械文明は、真理へ向かおうとする高尚な営みの代わりに、幼児的な卑しい遊蕩だけを人間に許し、科学の進歩と芸術の研鑽を「鎖でつなぎ、口かせをはめ」てしまう。そして、科学と社会が潜在的にもつ、進歩と改善を実現する能力は人類の幸福と安定という理念のもとにひざまずき、あらゆる人間の活動とその生産物が文明の現状維持のための膨大な経費として注ぎこまれる。ハックスリーのこの考えによると、退嬰した文明はみずからを末永く保存するために、生産と投資に注ぐことのできるエネルギーのすべてを、自分の目と耳をふさぐ集中力に費やすようになる。これは、進歩や改善に対する早すぎるあきらめや、未知なるものへの子どもじみた恐怖からではなく、新しい可能性と知覚を鼓吹する科学と芸術が、人間の尊厳というものを残らず忘却させる階級社会に対してどれほどの革新的な意義をもち、それゆえに転覆の脅威となるかを、いくつもの社会実験と歴史というみずからの経験から社会自身が学びつくした結果なのである。


類推を挙げてみよう。ハックスリーが描いた「新世界」は、アドルノ/ホルクハイマーが「啓蒙の弁証法」で述べているようなオデュッセウスを強く彷彿させるものだ。オデュッセウスは、海の魔物セイレーンの甘美な歌声の誘惑から逃れるために自分の部下である漕ぎ手たちの耳を蜜蝋でふさぎ、自身の身体を船のマストにきつく縛りつけさせる。かれの優れた智力は、美しい歌を聞きたい、真理を見届けたいという人間本来の欲求を充たすことが、どんなに恐ろしい変革をもたらすのかを見通しているので、その充足を否定することによってのみ、自分自身を支配し続けることが可能になることを知っている。そして、船乗りたちに対しても同様の抑圧が課させられることで、かれらの存在は集団の自己保存に奉仕するように改変させられてしまう。この見方にしたがうと、ハックスリーの文明社会は、崩壊を招来する自分自身の抑えがたい欲望をその卓越した理性によって鋭く感知するので、その構成員である被支配者たちに対してのみならず、みずからに対しても、真理への欲求を可能にする精神的な成熟を強く禁止するのである。


それでは、「すばらしい新世界」を精神分析の観点から眺めるとどう見えるだろうか。この機械文明は科学や芸術といった本当の喜びの価値を知りながら、それを否認し、封じているわけである。その代わり、人間たちには、触感映画<フィーリ>や薬物<ソーマ>によって即物的な快楽や惑溺するような感覚の悦びがふんだんに与えられて、かれらは好きなときに好きなだけ桃源郷をむさぼることができる。この文明を構成する社会制度と工場設備は、まるで、自分の代わりに心ゆくまで人びとが楽しむことを強制し、それを見て満足するためだけにあらゆる製品を、そして人間までも絶え間なく生産し続けているかのようだ。破滅的な何かが起きるのを阻止するため、ひたすら受動的に楽しむことを被支配者にゆずり渡し、機械文明は(あるいは統治者であるムスタファ・モンド総統は)能動的にはたらき続ける。そして、人びとが幼稚で未成熟な楽しみに耽るさまを眺めて、自分の欲望はそういうものであったと知り、初めて安心することができる。人びとが真に意味のある生産活動に手を染めないため、あるはずのなかった欲望をでっち上げるために、熱狂的に無意味な生産活動を続ける――ジジェクに言わせると、これは強迫神経症者の典型的な戦略である。