クーン「科学革命の構造」パラダイムはルールとどう違うのか?

科学革命の構造

科学革命の構造

科学とは従来、知識や研究が蓄積されることを通して、連続的・直線的に発展するものと考えられていた。つまり、科学史とはある客観的で永続的な真理の解明とその記述に向かって絶え間なく漸近する歩容であり、将来的には、ひとつひとつの貢献による累積がもたらす、ある究極的な理論を「真にそこに」存在するものと完全に適合せしめることができるであろうという進歩の観念である。

しかし、クーンはこの『科学革命の構造』において、そのような科学史観を与えるところの、多くの人々が信じる科学的知識への素朴な表象に本質的な懐疑を加える。彼は、知識および記述された命題の総量が保持する、「真理」への近似の度合いという通約可能な概念に還元して科学史を理解するのではなく、各時代はそれぞれ質的にまったく異なる科学的行為の体系を有しているとした。そして、それゆえに、各時代ごとの科学は、互いに通約不可能な営みとして非連続的に隔てられているとした。その際、時代ごと、または科学者集団ごとに共有された公準となり、実際の科学的行為を遂行し進展させる前提となるような核としての概念を提出した。それがパラダイムである。


本書では、パラダイムの定義はおよそ以下のように記述される。

パラダイム」とは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの

実際の科学の仕事の模範となっている例――法則、理論、応用、装置を含めた――があって、それが一連の科学研究の伝統をつくるモデルとなるようなもの

パラダイムは前者においてモデルを与える具体的な科学的業績である一方で、後者において科学研究を導くモデルとなるようなものとなっており、これら二つは微妙に意味が食い違っている。この混乱は後々の論争や補章における訂正と繋がるようなものではあるが、むしろ重要なのは、パラダイムという造語によってクーンが強調し、何かしら従来の概念と特別に差別化を図ろうとした意図にある。というのも、一見すると科学者集団間で共有されるパラダイムとは、科学研究を遂行する上で模倣の対象となるような良き模範としての先行研究、もしくは科学研究の内実を規定する規則や基準、すなわちルールそのものと同一視できるように思えるからであり、実際、上の二つの定義はそのような解釈を排斥していないからである。このような安易な誘惑に従うと、パラダイムを単に、互いに同意された一連の科学概念および操作手続きと大雑把にみなしてしまいたくもなるかもしれない。この誤解の裏には、科学がいかにして基礎づけられるかに対する、ある強固な先入観が働いているといえる。その偏見とは、おおむね次のような形で表されるものだろう。つまり、複雑に入りくんだ理論を理解するためには、それを構成するひとつひとつの法則や数式の意味を把握する必要があり、ひとつひとつの法則を理解するためには、法則を記述する言葉としての要素たる「力」、「質量」、「空間」、「時間」といった用語がいったい何を指し示すのかについて、疑問の余地なしに諒解されなければならない・・・・・・。実際、教科書においては、定義たる論理的指定を与えられたこうした概念を積み木のように組み立てて諸理論を得るという筋書きが容易に確認されるにちがいない。このような科学教育の実態、または科学教育の観念自体も手つだって、パラダイム言語化可能な、ミクロな意見の一致の集積と見る謬見はいっそう強化される。


ところが、クーンはその誤解をきっぱりと拒むかのようにこう述べる。

専門家の立場からすると、具体的な科学的業績のほうが、それから抽象されるいろいろな概念、法則、理論などよりも優先するのはなぜか。共通なパラダイムが科学を発展させてゆく学徒にとっては基本的単位であって、その単位は、同じ機能を果たすべき論理的にそれ以上分析できない、基本的構成要素に完全には還元し得ないものであるのは、どういうわけか。

つまり、科学的行為とその進展の基礎とは、抽象されるいろいろな概念、法則、理論といった一連のマニュアルやルールにではなく、パラダイムにこそある。それは、科学の派生と継続の必要条件としての共有された規則・基準と比較して、優先し、より拘束力があり、より完全なものとされているのである。

このことを説明する事情として、次のような例が典型的に表していると言う。

たとえばニュートン力学を学ぶ学生が、「力」、「質量」、「空間」、「時間」のような言葉の意味を知るのは、教科書に書かれてあるような、時には役に立ちもしようが不完全な定義からであることはまれであって、このような概念を練習問題に応用し、自ら測定、計算してみることで理解できるのである。


学生がニュートン力学を学び始めるというのは、f=maという表現やその中の言葉の本質的意味、例えば力は物体の本性に従属し、その内部から発されたものかなのかどうかという議論を学ぶことを意味しない。そうではなく、f=maが自由落下に対しては
mg=m \frac{d^2s}{dt^2}
となり、単振子に対しては
mg \sin \theta=-ml\frac{d^2 \theta}{dt^2}
となり、その他、異なる問題からf=maのアナロジーを見抜いて状況への問い方を適切に運用させること、つまり予め制御され方向づけられた「問いの構造」を自らに内部化することを意味する。ひとつひとつの具体的な実践を通して、その実践の網の目の内部でのみ、「力」、「質量」、「空間」、「時間」といった概念は把握されるということだ。f=maという記号的一般化は、様々な状況から法則をスケッチするためのアナロジー摘出の見本例である限りその意味を保つのであって、表現自体に奥深い真相が潜んでいるわけではない。要するに、運動方程式という実践のマニュアルを使用するというのは科学行為の見かけ上の話に過ぎず、このことは、その深層において

科学者として直面する状況を、彼の専門家グループの他のメンバーと同じゲシュタルトで見ること

が他ならず先立っていることの帰結でしかないということである。あるいは、こうした指摘を、操作規則とパラダイムの関係ではなく、科学概念と操作規則の関係に移し替えて解釈することもできよう。

(教科書にあるような)言葉の上だけの諸定義は、それ自体を考えてみた時には科学的内容を持たないものである。(中略)それらの示す科学的概念は、教科書やそれに類似の系統的な表現の中で、他の科学概念、研究操作の方法、パラダイムの応用に結びつけられた時にのみ、完全な意味を得るのである。

記号表現が有意味な命題の中で使用されるという事実からその意味は「示されている」という理由によって、少なくとも実際の科学的行為の遂行において内包の厳密な定義はまったく不必要であるということをここでかれは主張している。

この指摘は、パラダイムという概念の本質を理解する上でだけでなく、クーンの哲学的立場の表明としてもかなり意義あるものであるように思われる。彼自身も述べているように、ここには明らかに後期ウィトゲンシュタインの影響が見られる。科学概念とは意味を論理的に指定された、単一の実体を指示するわけではない。ある言葉を明確に、異議を差し挟むことなしに使用するには、その言葉が指し示す概念が共通してもっている一連の属性を過不足なく完璧に把握している必要はない。「言語の背後になにか本質的なものがあるわけではけっしてない」のである。


科学的行為において、抽象されるいろいろな概念、法則、理論といった一連のマニュアルやルールではなく、パラダイムこそが基本単位として優先することは、重い物体を糸や鎖に結びつけて振ると、最後に静止に至る現象(振子)の解釈の科学史にも例示される。

アリストテレス派は、重い物体がそれ自身の本性によって、高い位置から低い位置に動き、自然の静止の状態に至ると信じていたから、振れ動く物体は、ただ困難に抗しながら落ちるのだと考えた。(中略)一方、ガリレオは、振動物体を振子とみなし、その場合、物体は何度も無限に同じ運動を繰り返し続けるのであった。

科学が客観世界の対応物であるとする価値観に従えば、「アリストテレスガリレオも共に同一の現象を目にしたが、彼らの見たものの解釈で違いが生じたのだ」という説明は妥当に思える。しかし、このように片付けてしまうことは、科学者が解釈を施す前に網膜に飛びこんでくる現象それ自体がいかなるものであったのかを説明することにはならない。それどころか、解釈の相違によって現象が落下になり、あるいは振動になるという言明は、それ自体としては何も意味していない。科学概念が、科学的行為の操作と実践を通して、そのただなかでの使用として浮かび上がってくるものとするならば、むしろ、アリストテレス派は現象を落下として「見た」のであり、ガリレオは振動として「見た」のであるからこそ解釈の余地が生じたと捉えなければならない。この地平に従うならば、異なる実験室内の操作とアナロジー適用の実践を用いる二つの科学者集団は、

両方とも同じように用い、両方の理論や、さらにその理論から生じる経験的結果の叙述に適切であるような、中立的言語にたよることはできない。差異の一部は、すでに言語を当てはめる以前に存在するものであり、しかも、その言葉にも表れているからである。

各人の受け取った刺戟および刺戟から構成される感覚を記述する、中立的な観測言語というものを認めない点において、クーンは明らかに論理実証主義と袂を分かつ。*1そしていまや、アリストテレス派に「落下」という概念を、ガリレオに「振動」という概念を使用することを可能にしたものを追求しなければならないことになる。それは決して実験室内の操作およびアナロジー適用の実践という、明文化された規則ではありえない。というのも、言語が成立する以前に、

網膜上の映像や特定の研究室の操作の結果についての問題は、(中略)すでに知覚的に概念的に何らかの方法で分割された世界を前提とする


からである。
アリストテレス派によれば、石はその本性上、最後の静止点に駆られるものであったゆえに、彼らにとって運動を測るものは、経過した全時間に通過する全距離であった。これによって、現象は抑制された落下として統御され、アリストテレス派における実践の規則とは、石の重さ、石の持ち上げられた垂直的高さ、静止に至るまでの要した時間の測定、およびその相関ということになった。一方、インペトゥス理論と新プラトン主義が、ガリレオに運動を持続的で対称的なものとし、彼に円形運動を引きつけさせた。これによって、現象は振動する石として制御され、ガリレオにおける実践の規則は、重さ、半径、角変位、振動の時間だけを測らせ、それが振子の等時性を発見させた。いずれにしても、研究を遂行する上での科学概念や操作の手続きにたいして潜勢的に先取りし、つねにすでに言語に先立ってそれを成立させる世界観というものがここにきて要請されることになる。つまり、科学の課題を制御され方向づけられたものとして予め制限すると同時に、科学概念や実験操作および諸々の規則を成立させる問いの構造であり、科学者当人には隠されたままにしてその科学的行為の束を湧出させる源たる概念こそがパラダイムなのである。だから結論はこうだ。

振動する石に面する科学者は、原則として振子として見るよりもさらに基礎的な経験を持ち得ない、と言いたいのである。振子に代わるものは、何らかの、仮に「固定した」視覚ではなくして、振動する石を何か他のものと見る他のパラダイムによる視覚である。

言い換えれば、パラダイムは同時に広い領域にわたる経験を規定するので、これは必然的に

集団の成員によって共通して持たれる信念、価値、テクニックなどの全体的構成

という様相を呈する。科学の対象を限定し、実験操作やアナロジー適用を与えるものとして、確かに科学研究を導くモデルとなるようなものと言えるだろう。また、パラダイムモデルを与える具体的な科学的業績であるというのも、次のような事情から理解される。科学者があるパラダイムのもとで科学的行為を遂行できるのは、パラダイムの結果として編み出された一連のルールや仮定を、当の科学者やその仲間が言語化可能な諒解事項として過不足なく見出しているからではない。そうではなく、共通のパラダイムを有する科学者集団の仕事を互いにモデルとして、それらの多数の活動および自らの仕事に対して、密接な家族的類似を積極的に見出していくからなのである。科学者集団のなす仕事は、類似性の網目による家族を形成するので、その先駆としてのルーツが、ある具体的な科学的業績に認められるならば、それもまたパラダイムとなるだろう。これが、

モデルや例題として使われる具体的なパズル解きを示すものであって、それは通常科学の未解決のパズルを解く基礎として、自明なルールに取って代わり得るもの

としての側面である。問いの構造としてのパラダイム概念が示すところは非常に多義的かつ多層的であり、時代ごと、科学者集団ごとによってその意味するレベルが異なることは十分に考えられる。だが、それがあってこそ、f=maという実践のマニュアルや、物体の運動の観察からある物理量、もしくは複数の物理量の相関関係を抽出する活動が科学者にとって意味あるものとして獲得される。逆に、認識のゲシュタルトが事前に集団間で共有されていなければ、規則や概念の運用が成立することは決してなかっただろう。この意味において、

ルールはパラダイムから得られるが、パラダイムはルールがなくとも研究を導きうる

こうして、科学者の研究は規則・基準よりもむしろパラダイムを基本構成要素として優先され、そこに拘束されることになる。


では、あるパラダイムが正しいかどうかとか、間違っているかと問うことは可能であろうか。科学的行為を遂行する当人が、自らの捧げ持つパラダイムの正当性を問うということは、もはや科学哲学の枠を超えて言語の限界を問うことに等しい。ウィトゲンシュタインは『哲学探求』においてこう述べる。

「私はいかにして規則に従うことができるか?」 ―― もしこれが原因についての問いでないとすれば、私が規則に従ってそのように行為することに対する正当化についての問いである。
根拠を論じ尽くしてしまえば、私は固い岩壁に突き当たり、私の鋤は反り返っている。そのとき私は「私はまさにそのように行為する」と言いたくなる。

アリストテレスが現象に抑制された落下を見ること、ガリレオやわれわれが現象に周期的な振動を見ることは、規則としてすでに制御された所与のものだ。では、どのようにしてわれわれはそこに振動を見出すのか、そうさせたところの問いの構造であるパラダイムはいかにして正当性を得ているのか。これに当人自身が答えることはもはや絶望的であり、だから「自分はとにかく振子の振動を振動として見ているだけだ」と言いたくなるのである。同様にアリストテレス派もまた「石の落下を落下として見ているだけ」なのだ。それでもなぜ「私はまさにそのように行為する」のかというと、これはもはや、一連の応答への訓練によって定められた反応の仕方を習得しているから、すなわち、その内側へと人間の生活を投げこむところの問いとしてわれわれの言語が構造化されているから、としか言いようがない。この循環論を眺めてみると、パラダイムが、すでに慣習として与えられていて、もはや掘り返すことのできない言語の基盤、すなわちウィトゲンシュタインの言う「生活形式」とかなりの程度まで類似していることが理解できる。パラダイムも生活形式も、その正当性を評価することはまったく不可能である。また、異なるパラダイムや言語の優劣を決定することはできないという意味合いにおいても、それらは通約不可能ということになる。だからクーンは、パラダイムはひとつの尺度を通して検証されたり評定されるものではなく、ただ信奉されるものであるとし、科学の転換期において、科学者があるパラダイムから別のパラダイムへ乗り換えることをことさらに改宗と呼んだ。


彼がときとして相対主義的だと批判されるのは、こうしたラディカルな言葉遣いによるものだけではない。上述のように、彼は科学概念の客観的な定義が科学的行為の遂行においてはいっさい不要であるどころか、そもそも不可能であることを主張した。また科学者の研究を、一連の手続きおよび規則にしたがったパズル解きと同視することで、後続の理論が真理の描出にますます接近していくとする単純な進歩史観を否定するにいたった。すなわち、

理論の実体論とその自然における「真」の対応物との間の適合という観念

を幻想のものとして退けたことが、科学的行為を真理解明への道筋とする者たちには理解しがたかったのである。しかしこうした批判者は、パラダイムの正当性が評価不可能であることと、操作マニュアルやルールに従ったパズル解きとしての科学の進展が評価不可能であることを取り違えているように思える。確かに、パラダイム言語化されることなく、あるひとつの準則によって優劣をつけることのできない構造である。だが、パラダイムが科学者を導き、編み出された科学の仕事を通して量的・質的に増大させるところの諸理論は、

定量的予測の精度、奥深い専門的な問題と日常的な事象との間の均衡、解けた問題の数

などといった一律の基準のもとで、その優劣を判断することができよう。その結果、時代を下って登場した後続の科学理論は、先行する以前のものと比較して、より精確かつ広範に問題を解く能力をもち、それゆえにいっそう優れたものであると評価することは、それほど困難ではあるまい。そして近代以来、著しい専門分化とその発達により、

科学によって解ける問題のリストや、個々の問題解答の精度は、ますます増加する一方である

ことを知るならば、科学史が真理の記述を目指す漸近的歩容であるとしなくとも、その進歩を確信させるに十分な証左となることは同意できることではなかろうか。そして、クーンは、自らも言うように、科学的進歩の強固な信者であるのだ。

*1:またこれは、話し手の直接的で私的な感覚を指示する私的言語が客観的な言語として成立しないという、ウィトゲンシュタインの考えとも平仄を合わせている。