サドが「
悪徳の栄え」で繰りかえし強調していたように、
サディズムは獰悪な快楽を極める倫理への純一な忠誠心によってのみ実行され、悪虐の可能性を汲みつくそうとする求道のもと歩み続けなければならない。一方、
マゾヒズムという性向は、分裂した欲望によって一貫性を奪われた行動の矛盾に無自覚なままでいることでのみ維持され、それは「
義務を遂行する」ことを学ぶことで消失してしまう。鞏固な情熱に貫かれた
サディズムのロゴス的な明快さに比較すると、所有と被所有の往復運動そのものに意識を溶かしこんでしまおうとでもするかのような
マゾヒズムの非・自己への方向性はそれほど自明ではない。あるいはこれを
パラノイア/スキゾフレニアの対置に置き換えることもできるのだろうが、そうすると相互の関係が見えにくくなってしまう。
私見では、
サディズムは
マゾヒズムの可能性をはるか遠くに望見しつつ、
最後の審判を控えての黙示録的な侵犯の装いをもっている。そして、
マゾヒズムは
サディズムを常にその内側に織り込んでいるように見える。が、その内実は、支配対象の異なる複数
サディズム間の絶えまないせめぎあいの果てに到って、奪還・失落の瞬間に放たれる光彩に名づけられたカーニバル的な境地なのではないか。