タブッキ「インド夜想曲」

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

私はこの思惟を書き留めるにあたり、タブッキだけでなくボルヘスを、というよりもタブッキ的、ボルヘス的な記憶への愛のことを考えていたのだった。


かれらは、網膜に直接飛びこんでくるような事物の様相をではなく、観念としての表象を、あるいは、呼びこまれた記憶が固有の流動と結節点をともないつつ思い出されている現在の甘美さというものを、それが持続されている限りにおいて偏愛している。言葉が自らのうちに意味を汲み上げる、自己充足した観念としての観念でもなく、パスカルが言うところの、「理性の知らない、それ自身の理性を持っている」ような表象としての表象でもない。「思い出されている限りでの記憶」を愛するということは、展開される主情的なイメージの群れそのものを愛することではない。そうではなく、記憶が思い出されているという関係のされ方、その持続に美質を見いだすということだ。当然のことながら、執筆=書字動作へと移行するにおいては流れる時間が変質するにあたり、愛の条件はすでに失われている。これが、作者らが書く内容だけでなく、書くこと自体もまた主題とせざるを得なかった理由のひとつであるが、それ以上の困難は、表象と観念の連環をめぐるこの価値がひとつの完結したモチーフとしてまったく自立できないことである。光源を、光そのものを視覚によってじかに愛することはできない。世界が光に照らされ、ある色調、ある照らされ方のもとで容貌をさらけ出した世界を見わたすことを通して、初めて観念としての光が感覚により理解され讃えられるのである。それと同じように、純粋に観念的であることも表象的であることも拒む観念としての表象とは、表面に外から光を照射されていなければ瞬間瞬間の持続を存立させることが根源的にできない。ゆえに、この記憶への愛が歌い上げられるのは、書字の次元へと類比的に移し替えられた相互関係、すなわち、外部のテクストに繋留され、参照・被参照の応答が設立されるときである。だから、小説内の自己言及、開かれた不定形のコンテクストとは、主題へのアナロジー的な接近方法であり、記述の条件なのであるが、これはいわばかれらの愛の隠喩、その再演でもあるのだ。