- 作者: 後藤明生,竹田信明
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/04/10
- メディア: 文庫
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「わたし」の遍歴と同じように、外套もまた、語りを拒むものとして小説の消失点に位置づけられる。だが、語ろうとする意志から逃れる外部性を、より純粋かつ表徴的な形式とともに保っていた外套は、それゆえに「わたし」の道程に歩み寄るときの道標となってくれた。それは、起源が不明の、不連続な、行方のしれない、「わたし」に属していながら、「わたし」そのものではない、しかし「わたし」の時間的な持続が刻まれた、たしかに「わたし」を指し示す象形文字である。ゆえに、「わたし」についての語りとは、シンボルと「わたし」が交錯する表象のうねりから取り出された形式の同一性を語ることであり、外套を依り代とすることによって、初めて語りはそのよすがを手に入れたと言える。これに関連して、巻末の解説にて武田信明はこう述べている。
外套探索譚は何とか作品の軸線たらんと懸命の擬態を試みている言わば「まがいもの」のシンタックスなのであると。だからといって、隠れた真のシンタックスが作品を統括しているというわけではない。そんなものは存在しないのだ。
精確には、語りの発端を外套探索譚に見せかけることが語ることの他ならぬ条件なのだ。外套にことよせて語る身振りをとることによってのみ、自己自身への巡礼の道が通じるというわけである。米軍民警の制服ではなしに、「裾も、袖もダブダブ」の、まるで身の丈に合わず、亡父の将校用のものでもない、どこの誰が着ていたのかもしれない兵卒用の外套を、まさに自分が選んだ外套として見立てること。それと同じように、ここにあるのは、自己の来由への遡行を外套探索として見立て、その重ねあわせから濾過されたエピソードの断片を内部へ呼びこもうとする精神の営みである。だからこの作品においては、通常の自伝小説のような時間的・空間的な連続性や揺ぎない一貫した語り手というものは存立しえない。語りは自身の犯したなかば作為的な取りちがえにおびやかされるとともに、揺れ動く表象の波間によって不意の寸断や迂回を許すことになる。
「わたし」を挟撃し、ときとして踏みとどまらせ凍りつかせる、もろもろの対立や差異のモチーフのくり返しとは、したがって単に語りの内容を示唆するものではない。つまり、解読によって個人の来歴や内面が解明されるような、起源と連続性を証だてる秘密めいた「象徴体系」なのではない。そうではなく、「挾み撃ち」とは、ちょうど寄せては砕ける波が浜に描く砂紋のように、彼岸の向こう側に消え失せた語りえないものをたぐり寄せようとする、思考の絶え間ない試みが「言説上に露呈」したひとつの形式なのである。外套や「わたし」と同じように、時間の矢が再び枠外の消失点へと追いやってしまうような、語りの痕跡とでも呼ぶべきものと言えよう。