ポール・ウィルス「ハマータウンの野郎ども」

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)


本書は、イギリス国内の某新制中等学校(セカンダリー・モダン・スクール)における反抗的な不良、つまり「野郎ども」のエスノグラフィックな社会調査とその分析である。以下に簡単な要約をしてみよう。
「野郎ども」は、個人主義的なメリトクラシー(業績主義)を理念とする学校制度を、公認のものとは別の関係に引き寄せて読み替える。つまり、学校文化に対する反発と反抗という態度の表れであり、制度の「異化」である。同時に、ここには、自分たちを囲繞する全体社会との関わりの中で自分たちの生存の位相や条件を見抜こうとする衝迫的な力、すなわち「洞察」が働くと著者は言う。有り体に、抽象労働の存在や労働者搾取といった、資本主義社会へのイデオロギー的批判精神のようなものだろうか。現存のものとは別の社会を創造する政治行動のための武器となるはずの「洞察」はしかし、家父長制、身体に対する精神の優位といった、社会に潜む微視的な文化的イデオロギーの介在を受けることで、阻害・脱臼・変形される。こうした「制約」によって、「野郎ども」は自律的な展開を自然と見限り、手労働に積極的な価値を見出すことで自主的に参入していくようになる。インフォーマルな異化が、文化というフィルターを通して、フォーマルな制度へと回収されるのである。これが「野郎ども」のピタゴラスイッチ的な「同化」というわけだ。
しかしながら、「洞察」に仮託して語られる、著者自身の共産主義へのあからさまな傾倒はともかくとして、「制約」という概念の捉え方について、私はここにひとつの疑問を覚える。本書によると、「野郎ども」の「洞察」は幻想的な価値付与を通じて労働階級への埋没に接続されてゆき、それこそが階級再生産に他ならないのであった。とはいえ、その契機となる文化的側面の半強制介入を「制約」と呼ぶか「救済」と呼ぶかは、まったく各個人の社会認識によるということを忘れてはならないだろう。圧倒的少数派に過ぎない「野郎ども」の「洞察」の支援を行うことには、特にかれら自身にとって相当のリスクを伴う。反学校の文化を社会的な文脈の中に正しく相対化して認識し、対抗文化の担い手たちがその文化ゆえに長い将来に渡ってどのような人生を引き受けることになるのかに思いを馳せれば馳せるほど、われわれは既存の文化的イデオロギーから逸れることによって生徒たちが将来被るであろう負担に対して無責任になることはできない。したがって、階級再生産の是正のためだからといって「野郎ども」に下手に論拠を与えることはかなり躊躇われるはずなのである。学校制度からの脱落にも関わらず労働への順応を穏当にもたらす「制約」とは、果たして「野郎ども」の不幸であろうか。比較検討が不可能であるこの議論においては、あえて「救済」と呼ぶことも可能ではないのか。
今のところ、私の考えは非常に消極的である。弱者に対して敏感な者の目には、現状の追認でしかないとも取れるかもしれない。しかしながら、マイノリティへのお膳立てとは、裏を返せばマジョリティからの永久追放でもある。マジョリティへの同化と、どちらが暴力的なのかは、誰にも分からない。