「シーシュポスの神話」を読解する7

(3/17後半大幅に書き換えました)


これまでのところ、不条理を抱え持って確実なものだけに依拠して生きるということは、なかなか良いものだということが判明した。明徹な意識を維持することなく不条理を捨て去って生きる者に比して、そうした生き方が何層倍にも生を価値あるものたらしめ、その生涯に偉大さを恢復させるということが論証されたし、さらに生に準則を持ち出して未来に生きる者と一線を画した、本当の意味での自由を獲得できることも明瞭に示されたからだ。そのうえで、では私たちはいかように生きていけばよいのか。というのも、ここまでは「生きるべきか死ぬべきか」「不条理は人を死に追い込むか」という二択の疑問を解明していっただけに過ぎず、「このように生きていくのが良い」といった照応すべき心がけの類が未だ欠片も与えられていないからだ。いや、それどころか、そもそも

上訴の道を閉ざされ、人生をこれっきりのものとして生きることがはたしてできるだろうか(p.106)

という問いに結論が出ていないではないか。言葉だけを操って語った(p.109)生き方が提示されていても、実践的には不可能というのであれば、「毎日26時間勉強して初めて合格できるよ!」という言葉と同様に空虚にむなしく響くだけであり、それでは議論の意義があまり無いのである(方法の実践が現実的には不可能だということの認識には役に立つだろうが)。だから、ここからは先ほどらいの問いと「どのように生きていけばよいのか」という遼遠な疑問に切り込むべく、いよいよ本質的な検討に突入していくことになる。
 今のところの段階では、この生を生きる際の必然的要請が反抗(=運命の確信)という行動様式を除いて、人生にはいかなる教条や規範の類も容認されていない。つまり、

それはみんながやっていることだろうか、それとも厭わしいことだろうかとか、上品なことだろうか、それとも遺憾なことだろうかなどと考える必要はない。ここでは価値判断は断乎として拒けられている。なされるべきは事実判断だ。(p.107)

なにかしらの行為をわけもなく楽しいと感じたり、身体的に苦痛を覚えるために嫌だと思ったりすることはある。そうした感性を由来とする事実判断は許容されるが、上述の主義思想や美学、モラルに基づいた階梯の導入は徹底して避けなければならない。というよりも、反抗のみを特権化するという前提を崩壊させてしまうために、それは明白に反則なのだ。さて、全ての価値判断を捨象するということは、日々繰り広げられる無数の行為や可能性としてありうる、あらゆる未来の行為が私たちの目の前に平等に広がっていることを意味する。行為の全てが同等の価値を持ち、相互に対等で甲乙つけがたいのだ。つまり、(これは「カラマーゾフの兄弟」においてイワン・カラマーゾフが言っていることでもあるが)ニーチェ的に言うならば、「いっさいは許されている(P.119)」。

重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ(p.107)

ということになる。ではここで論理の推移を概括しておこう。まず、不条理の検証から、自殺せずに生き続けるべきだということが把握され、次に生きるに際しての方法論はなにか=どのような経験に価値を置くべきか=どのような経験を多くなすべきかという問いが出現してくる。しかし不条理の人間は価値の差異を認めないので、「どのような経験でも構わない」という少々ずっこけた解答が不可避となるのだ。これが取りも直さず、もっとも多くを生きることである。
 ところで、経験の量(p.107)を参照するということは、一つの巧妙な陥穽にはまる危険性を宿している。それは、私たちが社会の中で生きる者である以上、しきたりや規矩が道徳と極めて近接していることと必ずしも無関係ではない。本筋を迂回するが(しかもやや冗長気味になるが)、まずこれについて述べよう。

世間の道徳の本来の性格は、それを動かす諸原理の観念的重要性のなかにあるというよりも、むしろ、その大きさを測ることが可能であるような経験にとっての規範のなかにあるのだ。(p.108)

カミュは、道徳とは観念にではなく規範の中にこそその本質が眠っていると言う。これは具体例を想起すると簡明になると思うので、ここで、このサイトと相互リンクをしている「シトロエンの孤独」というホームページ及びブログを運営するmistyさんの文章を借りさせて頂く。もとは人間の主体性に疑問を投げかける論考で、ベネディクトの「菊と刀」を取り上げた部分である。ちなみに述べておくと、彼(彼女?)は九州の法学部大学生である。

たとえば、日本には恥の文化(shame culture)が根付いている、とベネディクトは述べる。彼女の定義によれば恥の文化とは、恥辱感を道徳の基本体系の原動力としている文化のことを示す。そしてそれは、罪意識を道徳観の基本体系の原動力とする「罪の文化」と区別をする。彼女が、日本人は世間を気にするという時、彼女は同時に世間を気にすることこそが最良の徳のひとつであると述べたことをも忘れてはならない。つまり、他人の顔色を伺ったり、世間体を気にしたりだということがらは、現代社会においては過剰されたもののそれとしてはマイナスイメージが付着しているが、ベネディクトはそうではない、むしろプラスに賞賛される文化社会という神話を日本に見出すのである。彼女はもうひとつ、日本人の道徳観念に通ずる重要な行為として、「自重」を挙げる。自重は、世間を意識することによって導かれるものである。彼女は、日本人が「世間などなければ自重しなくてもよいのだが」と言う場合のことを、「極端な言い方」「強烈な反応」だとか記述する。 つまり、彼女は外部化された視点に立っているから、世間体や周りを気にすることを――これが、たとえば「和の文化」とでもいわれるものなのだろうか――徳と感ずるわたしたち日本人のことを奇異に感じているようである。そうしてかようの外面を整えようとする規範文化においては、恥辱感といったものが徳目におかれる限りは、わたしたちは内面のせきららな告白など、しようとはしないのである。自己の外面的要素を価値におくこの恥の文化が妥当する範囲においては、「告白はかえって自ら苦労を求める」とベネディクトは述べるように、自ら進んで内面的告白などそうそうしない。(一部改変)*1

こうして見てみると、道徳と規範がほとんど不可分なほどに一体化して同一平面上で働いていることが確認される。日本人は「自重」という観念それ自体を褒めそやすことはしないが、一方で「世間体を気にする」という規範めいた感覚がそれこそ徳として位置づけられているではないか。これが、世間の道徳の本来の性格は、それを動かす諸原理の観念的重要性のなかにあるというよりも、むしろ、その大きさを測ることが可能であるような経験にとっての規範のなかにあるということを証左する一例である。それで、そのことがどのような陥穽に変貌するのかというと、つまり規範や規則の中に身を置くだけで無意識のうちに道徳という価値判断が形成されていってしまうという深刻な事態が可能性として発現するのである。要するに、

経験がもっと長くなれば価値の表は変ってしまうだろう(p.108)

という危機だ。これは全くもって不条理という他ない。経験というこの人間的物質をできるだけ多く私たちにもたらすような生の形式を選んだはいいが、今度はそれによって一連の価値の階梯を導入する(p.109)破目に陥りかねないというのだ。そういう価値の階梯を私たちは拒否しようとしている(p.110)にも関わらず。
 しかし、そもそも「より多く生きる」と言う言葉の本当に意味することは何なのだろうか。価値の導入に関わるジレンマの懸案は、この定義の問題に端を発しているのではないだろうか。そこで、論議を立ち戻ってまずこれについて考えてみよう。「より多く生きる」というのは、人づきあいや勉学や恋愛や読書や自然とのふれあいといった多様な行為・経験を可能な限り多量に積み重ねることで合っていたのか。それは違うと、カミュは理由とともにこう述べる。

どれだけの量の経験を獲得するかということは、ぼくらの人生での状況如何によると考えるのは間違っているからだ。じつは、経験の量はまったくぼくらしだいのことなのである。(p.110)

ここでの「ぼくらしだい」の意味は、つまり人生や行為といった外部とは切り離された、独立した自分という存在に拠るということ、すなわち経験や行為を感受する私たちの精神次第であるということに他ならない。そこで次のような反駁が出てくる。それは明らかにおかしい、先ほどの「もっとも多くを生きる」という命題がここでは意識、つまり質の問題へと移り変わっているではないか、という反論だ。しかし、ただ積極的に余人を上回る回数の行為を行為をなしたからといって、その事実が当人の益となる担保はどこにあるだろう。例えば、私は小学四年生のときに親とともにアメリカを旅行し、また中学卒業後の春休みに単身でカナダに行き、わずか十日間ながらもホームステイしながら語学学校に通ったことがある。大学のワンダーフォーゲル部に所属して、山形の朝日連峰岩手山屋久島の九州最高峰・宮之浦岳や新潟・群馬県境の谷川連峰に登ったことがある。と言っても、冴えわたる意識ずっと維持しながら貴重な経験を汲みつくせたわけではない。前者の場合は意志疎通ができず、周りから変な目で見られることへの恐怖からひたすら殻の中に閉じこもって外部に目を向けることから逃げ回っていた。後者の場合は、苦痛や憔悴のあまりほとんど思考が飛んでいたため、美しい自然や壮大なパノラマを十分に感じ取る余裕などなかった。このような経験の実態は、別段私に限ったことではないに違いない。たとえ得難い行為や経験に出会えても、逃避することなく明徹な意識を以てそれらを多量に生きねば、価値ある経験を少なからず無為へと貶めてしまうことになるという認識は、実は誰もが弁えている一つの真理なのだ。つまり、

意識的な姿勢で人生を生きれば、経験はそのひとの役にたつのだ。意識的な姿勢で生きなければ、経験などなんの意味もない。(p.122)

だからこそ、もはや議論の眼目は透徹な意識を保持することによって経験の量を質へと反転させることになる。

自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。(p.110)

いや、私は既に誤解していたかもしれない。わざわざ海外に飛んでまで外国語で人とつきあい、何時間もかけて山に登ることで自然にふれるといった行為と、勉強したり仕事をしたりといった日常の営みに価値の差異はないのだ。そして同時にジレンマも解決される。そこに行為としての価値があるから規範があるのではなく、単なる道徳としての規範があるだけにすぎない。そして社会に追従する規範に基づいた行為も、反社会的な規範にそぐわない行為も、全てが可能性として対等で無差別に広がっている。この認識を把持している限りにおいて、道徳律や倫理などといった社会の要請が強制的に価値判断を形成させてしまうことに恐れる必要は始めからなかったのだ。不条理の人間はただ行為の全てを平等に取り扱い、おこなう行為全てを全力で汲みつくす、それだけだ。社会が私たちの無意識のうちに価値観を注入して来ようと、今やそれによる行為や経験をがむしゃらに鋭く生きつくせばよい。或いは、外界から要請された勉強や仕事を同じことの繰り返し、つまらない作業の反復だと訴える者もいるかもしれない。しかし、彼らは明晰な意識と豊かな感受性を日々のそうした行為に向けることをとうの昔にやめてしまっている。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとることができないときに初めてそうした行為が単調で実りが無いものに思われるのだ。カミュの論理に従うならば、そのとき彼らは生きていないのである!
 あえてここまで触れなかったが、最後に「行為を汲みつくす」の原初的表現である「いっさいは許されている」 の真の意味を、誤解を正す形で明確に示しておこうと思う。それは、「汲みつくす」という言葉の言わんとすることが読者にとって未だ不明であることが私の望まないことである以上に、「どのように生きていけばよいのか」という切実な問いに対して、「シーシュポスの神話」が指示するこれ以上ないほどの具体的な解答を何としてでも明らかにしなければ私の情熱が収まらないからに他ならない。では、これから述べることが私が不条理の論証から引き出したほんの一例としての人間像であることを記憶に留めて頂いたうえで、最後の「不条理な論証」に取り組むこととしようか。
 二種類の幼稚な人間は「いっさいは許されている」という公準をあえて曲解してみせる。まず、犯罪に憧れを持った取るに足らないひねくれ者はこう述べるだろう。「いっさいは許されているということは何をしてもいいということだ。だから俺が物を盗んだり人を殺すことも全ては自由なのだ」と。もしその者が、ちょうど私たちが歴史に残る芸術にふれるときと同じように、略奪に魂を揺さぶるほどの人間的喜びを感じ、私たちが周りの人間から評価され認められるときと同じように、殺人に舞い上がるような高揚感を覚えるのであれば、カミュの論理はそうした倒錯者の願望を止めはしない。不条理は行為の平等性を主張するだけである以上、価値判断に拠らない限りにおいて、自分という人間を唯一無二の参照項にしながら、私たちは望むことを望むがままに行為さえすればよいのだ。だから、自分が何をしたいのかさえ分からない愚か者に限って、「もっとも多くを生きる」という準則を聞かされると、途端にしたり顔になり勝ち誇ったような口調で「犯罪をしてもいいんだな?」と言ってのける。彼はあらゆる行為に対して人間的喜びを生まれてこのかた微塵も感じたことのない、考えられる限りで最大の不幸者だったのだ。次に、快楽主義的な勘違い者は、この言を聞いて「じゃあこれからの人生は楽しいことばっかやっていようwwわーいwww」と飛び上がるに違いない。しかし、このような解釈も誤解者の浅薄な人間性を図らずも暴露してしまっているのだ。一体私たちは、徳、芸術、音楽、舞踊、理性、霊性というような、この地上で生きることはそれだけの労に値するものだと思わせるなにかあるもの(p.113)ゆえにこうして生きているのではないか? それは家族への愛でも、勉学や仕事への情熱でも、人の間で生きることの喜びでも、或いは死への恐怖でもよい。今こそ断言しよう、あらゆる人間は死なないことで全人生に値するなにかしらをそこに懸けている。それがなんなのか、たいていは当人にも把握できていない。だから人びとは日常に流されて気ままに生きていることもしばしばだし、毎日を無為に過ごしてしまうこともある。しかし、一端「いっさいは許されている」と宣告されたとき、もはや明徹な意識を以て自分は生きることに果たしてなにを懸けているのかを誰しもが見極めずにはいられない。その意味で、「もっとも多くを生きる」とは、私たちを生きさせているその対象へとまっしぐらに向かわせることを要請する。なぜなら、私たちが人生を懸けている対象は間違いなく人間的喜びに基づくものであり、生をあらん限り多量に感じ取ることを可能にさせるからだ。とは言え、全てを見透かす視力で生に懸けているもの捉え返し、全人生にわたって文字通りそこを「生き場」とすることは、かつてない悲痛な覚悟が迫られるゆえに、決して容易で楽なものではない。さらに、以後の人生においても、苦痛のあまり従来の安易な生き方に舞い戻りたい誘惑に頻繁に駆られるかもしれないのだ。だが、それがただ一つの透徹な逃避しない生き方であることを深く知りつくした不条理の人間は、ひとたび決断を下したことで過去の自分に対する責任を担ったからには、いかなる誘惑にも克ち、覚悟を全うしなければならないのである。それも後悔しないために。己の生を悔恨に塗れさせないためにこそだ。したがって、イワン・カラマーゾフニーチェの言は解放と喜悦の叫びではなく、むしろ苦々しい確認の叫び(P.119)であるにしても、それはただ一つの延々と続くあの畷を前にしたときの力強い覚悟の気合入れでしかない。そう、克己の道を前にしたときの……。
 以上、私が理想として見いだした不条理の人間像である。「シーシュポスの神話」の本筋とは些かも関連しないのでご注意願いたい。……さて、不条理の定義に始まり、不条理から導き出されるあらゆる帰納的事実を議論してきたこれまでの論考から、結論として私たちは生きてなんぼの人生を送っていることになるだろう。目醒めた意識を有しているなら、あとはひたすら量の問題となるからである。そして、

たえず意識の目覚めた魂のまえにある現在時、そして現在時の継起、これこそ不条理な人間の理想である。(p.112)

これが論証の第三の帰結だ(p.112)。畢竟、覚醒した不条理の人間は、生きてさえいれば幸福なのだ。それも、行為や経験の全てを感じ取ろうとする熱情的な炎のまっただなか(p.112)に生きているからである。これによって、「シーシュポスの神話」冒頭に掲げられたピンダロス「ピュテイア祝捷歌第三」からの引用の意味も十全に理解することができるに違いない。

ああ 私の魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、可能なものの領域を汲みつくせ。(p.6)

長生きすることは確かに価値ある人生を呼び込むが、それにしても経験を汲みつくすことが条件として想定されていなければならない。だからカミュに言わせるならば、「私は可能なものの領域を汲みつくすことをまず望むが、その次に不死の生を希う」という優先順位になるのだろう。実際、不条理の人間は「生きてなんぼ」なのだから。
 以上、不条理から反抗、自由、熱情という三つの帰結を抽き出した(p.112)。そこに到る精神の道筋を、カミュはあくまで明知を失わぬ絶望という夜、極地の白夜(p.114)に喩える。私たちの境遇は理性の限界がもたらしたどん底の絶望のように見えるけれども、かたくなに理性を保ち続け、ついには生へと向かっていく冒険者にとって、それは絶望ではなかったのだ。だから、これまで俎上に載せて検討してきた、理性をかなぐり棄ててしまう実存哲学は、目を閉ざしたときに、人間の意志だけによって生れる夜(p.114)であり、そこに描かれた飛躍は、信仰という意味でひとの心を打つ(p.115)にしてもやはり偽りなのである。
 かくして、答えは出た。私たちはかように生きれば良い。つまり、覚悟によってもたらされた反抗という生の中、覚醒された意識によって経験を汲みつくす、これである。

いまや、問題は論証ではなく、生きることだ。(p.115)