「シーシュポスの神話」を読解する6

 束縛条件から抽き出された帰結の一つ目は反抗という精神態度であった。この解答はさしあたり私たちに生きることを薦めるものであったが、残りの帰納的事実もまた生存を肯定するのであろうか。次は議案を「自由(p.99)」に移して見ていこう。とは言っても、今から取り組むのは「自由とはなにか」という存在論的問題ではない。主要な目的は、不条理に出会う以前の人間が「自由である」という状態、そして不条理を墨守する人間が「自由である」という状態の比較検討であり、不条理の人間が帰納的に提示する帰結――それは生きるに値する生きざまなのか、或いは自殺した方がより有意義なのか――を見届けることなのだ。そうして、カミュはさっそく、不条理をまだ見知らぬか、もしくは固執することもなく凝視を諦めた者にとっての「自由」とは何かを見極めていく。
 不条理との呻吟なる格闘を維持しない集団というのは、世の中にいる大部分の人間がそこに含まれる。この文章を読んでいるあなたがそうである公算は大だ――むろん、私も同様にそうした無数の大衆の中の一人であるという可能性は否定できないのだが――それならば話は早い。これからカミュが述べる大衆の生き方は、馴染みのある卑近なものとして実感できる、これ以上なく分かりやすいものだろう。

日常的人間はさまざまな目的をいだきながら、また未来を気にしたり、自己正当化に心を配ったりして生きている。(p.100)

かれはまるで自分が自由であるかのように――たとえあらゆる事実がよってたかってこの自由を否定しにかかっても――振舞っている(p.101)。

このように、私たちは普段、大なり小なりのスパンで目標設定→作戦遂行→目標達成→…という大まかな流れの中を生きている。ゴール地点をを決めるのは他ならぬ私たち自身であるし、行為の権限の全てが当人に還元される以上、これは自由に基づいた高度な主体的判断なのだと思う方もいることだろう。いや、人々は実際、自分が自由であることに微塵も疑いをかけていない(ように見える)。ところが、カミュはそれを全否定する。

自分の人生になにかひとつの目的を思い描いているかぎり、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。だから、自分がそれになろうとしている一家の父親(あるいは技師、あるいは大衆の指導者、あるいは郵便局の臨時雇い)としてしか振舞えぬだろう。(p.102)

このような自由への懐疑は、不条理との出会いを通して初めて与えられる、absurdeなるものとの原初的体験である。というのも、私たちは日々の生活にあって先入見に支配され、それにのっとった生き方をしている(p.103)ばかりか、自分の周囲の人びとがいだいているさまざまな信念、自分と同じ境遇にある人びとがいだいているいろいろな先入見が成立せしめた、自分は自由なのだというこの公準(p.102)が、自由への疑念を差しはさむどころか自由への確信をいよいよもって強めていくからだ。だから、「目標達成途上で自分は不慮に死んでしまうのではないか」「今打ち込んでいるこの努力は結局無に帰してしまうのではないか」「目標に到達して、ではその次は何をすればよいというのか」などといった、生へのある種の自信喪失は、《自分は存在する》というこの観念、まるであらゆるものに意味があるように振舞っている自分の生き方が、根底から揺り動かされる(p.101)思いをすることになる。こうした根源的恐怖が先だって、次いで、自分がそれになろうとしている一家の父親(=目標としての在り方)としてしか振舞えぬ(p.102)という衝撃的事実に彼らは気づかされるのだ。彼らのそうした生き方は、全てが目標達成のあの刹那に向けられている。自分の受験番号を合格者受験番号一覧の中に発見する瞬間のために不毛と思うこともある勉学に励む受験生や、試合で結果を残すために日々のトレーニングをいやいやながらこなすスポーツ競技者は、用意周到に将来の人生まで計算しつくした結果、失敗を恐れるあまり、「目標を達成した未来の自己」に半ば命じられて、半ば恫喝的にその行為を強制されている。彼らは主体的選択に負っているように見えて、実は未来に束縛された従属的存在に堕落していたのだ。すなわち、

ある在り方とか創造の仕方とかを気にかけているかぎり、つまり自分の人生を秩序づけ、そのことによって、人生には意味があると自分で認めていることを自分みずから証明しているかぎり、(彼らは)みずから柵を設け、そのあいだに人生を押しこめている(p.103)

ということになる。未来に目標を叶えた自己がいることによって仮想的に人生に意味があるということにはなっても、努力を傾注している今現在や、成果のあがった未来はその時点で意味を有してはいない。将来という鉄条網に囲まれた羊は、原初的世界の拡がる鉄条網の外を覗き見ることが覚醒を導いてしまうゆえに、彼らは自由という見果てぬ幻想に追いすがるしかないのだ。これは残酷なことだ。
 ならば不条理な人間はどうか? 彼は真の意味において自由と言えるのだろうか? 言えるとするならば、それはどのような性質の自由なのだろうか? …不条理から目を逸らした人間とは逆に、不条理な人間には深い自由の根拠(p.103)が二つ挙げられるとカミュは言う。一つ目は日常的な眠りの外への脱出(p.104)という意味においての解放(p.104)という点だ。人は往々にして、論理的飛躍の象徴とでも言えるような概念を信奉してその信ずるもののなかに身を沈めることで、その神(=絶対権力)の定める規則に同意することで、こんどはかれら自身のほうが内心の自由を獲得する(p.104)という情況に陥りやすい。本文では神秘家がその一つとして槍玉にあげられているが、自己をなにものかにあたえることにおいて自由を見いだすという構図は、現代の日本社会においてサービス残業・休日出勤さえ厭わずあくせくとして働く勤め人においても見られるのではないかと思うのである。いや、勤労する彼らを神秘家になぞらえて嘲笑するつもりは毛頭ない。しかし、労働を美徳と考え仕事を自分の人生と密接な繋がりをもった、いわば「もう一つの自己」と捉えるあまり、単なる労働力としてしか見なされないはずの惨めな自己を肯定しようと、ついには自ら進み出て仕事に人生を捧げてしまうという精神傾斜が潜在していない保証がどこにあるだろうか。そして、無意識の勾配に従った先で奴隷状態に自発的に同意(p.104)を示し、知らずしらずのうちにそこに深い独立を見いだ(p.104)してゆく畷が彼らの精神の暁闇の中でどんよりと底光りしていないと果たして言い切れるのだろうか。その意味で、謎めいた神秘家と、自分の仕事に誇りを持てないながらも(或いは持てないからこそ)労働資本を供物として貢ぎ絶対権力に帰依してゆく労働者は全く等比的存在なのである。一方で、不条理の相対的な力を認めている強靭な人間は、反抗という精神態度を除いてあらゆる一般の諸規則に対しては自由だと悦びとともに感じている(p.104)。なぜならそれは明晰な意識の回帰と、張りぼての狭苦しい内心の自由に見せかけた奴隷状態からすっかり解放されているからだ。
 二つ目は、底知れぬこの確実性のなかにかぎりなく身を沈めることのもたらす一つの大きな可能性ゆえである。確実なところのもののみを生きるとは、反抗を生きるとは、自分の運命の全てを受入れることであり、以後の人生における出来事とは全て腹を据えた過去の覚悟の残りかすのようなものに変化してゆくというのは既に述べた。念のため再掲しておこう。

ゆえに、将来に起こるであろう苦難や疼痛は、もはや決断のあとに残った些末な余燼のようなものでしかない。十全なる予測を行った上での行動ののちに発生する現象が、行動に随伴して起こる残響めいたものにしか感じられないのと全く同じことだ。

残りかす・余燼・残響。そうした事後的に付随して来る出来事に、怜悧な当事者意識を以て張りつめたひたむきさとともに対峙する者が本当にいるかどうかは誰しもちょっと疑問に思うことだろう。喩えるならば、山や谷に向かって叫んだあとに返ってくるやまびこに心底から驚嘆し、その声に自分以外の見知らぬ誰かを想定してしまうという情況はまずあり得ない。山に向かって叫ぶ以上はやまびこの現象が発生することをその時点で既に把持しているのであり、彼はそのとき、数秒後に返ってくる声を十分すぎる確信を持って「志向」しているのである。むろん、やまびこを聴いたときの彼の反応はほのかな関心を寄せて面白がることではあっても、真贋を見極めようとするかのように大仰に身構えることではない。これと同様に、運命の確信によってこれからの人生を把持している者が一瞥する、己の行為、そしてそれに付帯したり継続して起こる事態に対する視線は、(ヘーゲル的には)対自意識だけがすっぽりと欠落した、冷めきったものとなる。言うなれば、自分がした行為とそれによる結果は明確な社会的責任が付きまとい、社会に生きる者である以上、彼は確かにそのことを常識的な知識として弁えてはいるのだが、自己に属するそうしたもの全ては、彼が現実に存在し(=実存)、彼が彼という人間であること(=生)とはもはやなんら関係のない「残りかす」としてしか認識されない。当事者でありながら、現象を把捉する態度はちょうど無関係な第三者のようにパースペクティヴであるというこのねじれ。これこそがカミュの異邦人(p.105)の思想である。

これ以後は自分自身の人生に対してまったくの異邦人となって自分の人生を育んでゆき、恋人を見るときにような近視眼は棄てて自分の人生を眺めわたすこと、ここに解放の原理がある。(p.105)

どうやら知見が出されたようだ。不条理の人間は自由であるか? 人生を規則づけ将来を打算することから解き放たれた人間にとって、未来とは受け入れられた可能性である。価値の階梯と先入見を認めない以上、そこに制限が入る余地は無いのだ。今や問いに対しては、全くもって自由だと言わなければなるまい。

ある朝まだき、刑場へと向けて開かれた牢獄の門をまえにしたときの死刑囚の、あの神のような自由な行動可能性、生の純粋な炎以外のいっさいのものに対する、あの信じがたい無関心、――そう、じつにはっきりと感じられよう、こうした状態においてこそ、死と不条理とが、妥当な唯一の自由の、つまり人間の心情が経験し生きることのできる自由の原理となるのだ。これが第二の帰結である。(p.105)