谷崎潤一郎「陰翳礼賛」陰翳の在り処

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)


前回は日本人に潜む幽邃な情景への追慕について触れたので、それと関連してこの書籍を手にとってみた。・・・しかし・・・。

けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろゝゝの関係があるのであろう。・・・・・・が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれゝゝの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。

薄暗さを逆に利用することで醇雅な質感を浮き出たせることに成功した日本特有のものとして、谷崎は他に漆器の椀や女性の風俗などを挙げているが、そこまで幽玄への感受性が強くて、なぜ自身が小説で描いてきた人物の内実にいっさい言及していないのか。ここに紹介されているのはどれも感覚的なフェティシズム、つまり対象信仰ばかりで、生活実感が帯びさせる人間の生態に癒着した相貌としての薄暗さにはまったく気づかないか、あるいは気づかない振りをしている。古事記に伝を発し和歌に詩情を乗せてきたわれわれの伝統において、陰翳の神秘がどこに奥まっているのかと言えば、それは雅致な南画を配した床の間でも愛玩用の淳風佳人でもあるまい。さるポストモダン建築では、部屋の片隅を故意に薄暗くして、「ここが人間の無意識を表している」などと豪語したらしいが、精神に伏在する無意識を無批判に物質化してそれで精髄に迫れるとでも思っているのか。陰翳についてもこれと同じだ。この随筆が現代人の忘れかけている闇の中の美を指摘したというのはずれた認識である。そこは、陰翳の産物をフェティッシュというごく一面から感得することによって、われわれが体現する陰翳をわれわれ自身に照射せしめたというべきだろう。幽庵とは外部の物質ではなく心理に沈潜しているからこそ、生きている人間の機微にその核心が初めて表出するのである。それを求めようとするならば、風化し去った文化・建築にではなく、陰翳に対する衝動を今なお脈々と受け継ぐ人間の生き様にしかない。


どうも私には、後期の谷崎潤一郎は安穏な懐古趣味に閉じ込もってしまって、それと同時に前期の小説から溢れさせる妖気の普遍性を失ってしまったようにしか思えない。以上、不平不満に名を借りた日本文化についての思惟であった。( ^ω^)