太宰治「斜陽」読解


あらすじ

最後の貴婦人である母、破滅への衝動を持ちながらも“恋と革命のため”生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲愴な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描く。昭和22年に発表され、“斜陽族”という言葉を生んだ太宰文学の代表作。(新潮文庫

登場人物の四人がそれぞれ太宰の異なる性質の投影になっているために、これを紐解くのはなかなか容易ではないと思います。直治は初期の創作集「晩年」の頃の作者であり、上原は末期の「人間失格」の葉蔵そのものです。そして、かず子の母は中期の「走れメロス」のような、赤みを帯びた頬を連想させる健康さの象徴になっています。ところが問題なのはかず子です。彼女は一体作者のなにを表象しているのでしょうか。彼女が太宰の希望であり未来における新たな可能性であることはある程度推測できますが、蛇だとか戦闘だとか不倫だとか、あまり明瞭でない周縁の関連が靄をかけています。ここではかず子をめぐるこれらの表象について考えていくことにします。まずは「蛇」についてです。

そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇(注:かず子は先日に蛇の卵を焼いて埋葬した)に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮(マムシ)みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだかそんな気がした。

ここではマムシと蛇が対立しています。母蛇としてのかず子の母と、マムシとしての母蛇の卵を焼いてしまったかず子の間には決して埋められない断絶があるのです。断絶とは言っても、母殺しがすでにそこに仮託されていたわけではありません。というのも、かず子が殺めたのは母蛇ではなく、自己の隠喩としての卵だからです。つまりかず子は、母の時代を素直に継承するであろう自分を認めることができない、もしくは認めたくない。ところが一方ではそんなことを考えている自分が恐ろしくて堪らず、できるならいつまでも母に甘えていたいということは、彼女が始終母親にべったりで、親離れのできていない娘であったことからも推察されます。母――それは、ほんものの貴婦人の最後のひとりであり、ひとつの時代の終焉を表していました。だから、最後のひとりではあっても、母はまだ貴婦人でいられたわけなのですが、かず子はもはや貴婦人ではいられないのです。この致命的なほどの聖性からの隔絶、つまり、それまで母娘で共有されてきた美しさや正しさから隔離されたと感じる時、彼女は既存の価値観を食い殺すほどの邪悪さを自らのうちに見出すに到るのです。そして、蛇が来訪する正夢に彼女は怯えます。

私はお前を知っている。お前はあの時から見ると、すこし大きくなって老けているけど、でも、私のために卵を焼かれたあの女蛇なのね。お前の復讐は、もう私よく思い知ったから、あちらへお行き。さっさと、向うへ行ってお呉れ。

これほどにもおののいているのは、他ならず復讐されるほどの罪悪をなしたことに自覚があるからです。母への過度の依存とともに、かず子に付きまとう戦慄的な人道への罪意識は忘れてはならないでしょう*1
母の病死によって、彼女は精神的に宙ぶらりんの状態になります。彼女の内部に含み込まれた不吉な可能性のアンチテーゼであると同時に、それを覆い隠す役割を果たしていた母がいなくなることによって、彼女自身の毒が社会に対してあらわになるのです。この表現はあまり精確ではないかもしれません。母に保護されていたことで彼女の毒はまだ毒にならず済んでいたという見方もできるからです。人の間に投げこまれた毒ならぬ毒は、人にまみれて真の毒へと変容していきます。そして、その過程が「戦闘」です。

戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらねばならなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ生きて行けないのだ。

戦闘、開始。
もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま守ることを誓ったら、イエスさまはお叱りになるかしら。なぜ、「恋」がわるくて、「愛」がいいのか、私にはわからない。同じもののような気がしてならない。何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者、ああ、私は、自分こそ、それだと言い張りたいのだ。

彼女にとって、従来の倫理は、新しい価値観によって代替されるべき、頽落し失われてしまったものに映ります。というのも、彼女にあるのはあらゆる既存のものへの否認だけであり、そこに確たる合理性があるわけではないからです。経済学であれ、キリスト教であれ、それまでの教条がいっさい信じられなくなった五里霧中において、生きる限り一心不乱になりふり構わず打開を求めてゆくしかないんですね。彼女が現状を打破するとしたら、それだけの熱情を有しているのは

私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの

という、身に宿る不可解な欲望だけであり、それは彼女の血に流れる芸術家への引力と相まって、上原へのえもいわれぬ慕情と直結してゆくのです。再掲しますが、かず子は

身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者、ああ、私は、自分こそ、それだと言い張りたいのだ。

「身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者」という句は、他人の身体を殺すことができてもその霊魂を殺すことができない人ではなく、この二者をゲヘナの火に滅ぼすことができる唯神のみを畏れよ、というマタイ伝10章28節の教えからの引用です。つまり、かず子の宣言とは神を自称するものでもあるのですが、ここにあるのはもっぱら主情的なものであり、新たな価値観をぶち上げる覚悟を自らに言いきかす意味合いが強いと言えます。すなわち、

破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに。それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。

未知の完成を知るためには、かず子は自分の持っていた美徳や道徳の数々を、そしてなにより論理を放擲しなければなりませんでした。彼女の感情的で飛躍的な思考の数々がこのことを容易に確認させてくれます。なぜなら、それこそが彼女の信じる真の破壊であり革命であるからです。そう考えると、上原への恋慕もあながち単なる動物的な欲求だけではなく、「不倫」による道徳からの積極的な逸脱や罪の汚れを自ら希求したがゆえのことになるでしょう。こうして、彼女は自己を否定しつくす極限の裏側に待ち受ける新生を企図しつつ、破滅の淵へ身を投擲させてゆくのです。話は逸れますが、おそらくはここが弟の直治の精神性と袂を分かっていると思われます。片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気のような、バイタリティ溢れる生への欲動、あるいは直治に言わせるならば希望の地盤があるのかないのか、という差異が二人の結末を明暗に分けたのです。
では、彼女の「不倫」、いや、道徳革命としての破壊活動はいかなる顛末を遂げたのでしょうか。

革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。(略)けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。

私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(略)革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。

変革とは不断の反逆によって初めてなし得るものであり、そのためには旧来の価値観を捧げ持つ社会とあくまで相克せねばならない――それが彼女の至りついた思想でした。そして、この終わりなき闘争に生きる者とは、世にはびこる偽善と人間の変わらぬ低劣さに嫌気が差して自殺した直治と、ニヒリストの上原をも含め、低俗な人間や社会の道徳といったあらゆる「既成」に対する不信と反骨を抱いた離反者として共闘する者でもあります。彼らはまさしく、ブルジョア打倒に決起するプロレタリアートのような悲愴さに満ちた、道徳の過渡期の犠牲者なのです。

*1:ちなみにキリスト教において蛇は罪の象徴とされています。特にヤコブ書では「罪」が悪魔サタンの娘であり、同時に「死」の母であるという言葉がありますが、「斜陽」ではあまり関連性はないようです。