フォークナー「死の床に横たわりて」言葉から隔離された人びと-踏みとどまる人びと

貧農バンドレン一家の主アンスの妻アディは、結婚前は頼りとする家族のいない、天涯孤独の学校教師であった。彼女はあつい信仰を胸に秘めながらも、《ちょうど蜘蛛が口からぶら下がって、からだをふったり、ねじったりしながら、ついぞ触れ合うことがない》ように、言葉というものを《人間がお互いを利用し合う》ために作り上げられたにすぎないものと感じていた。それはアンスと結婚してからも同じで、自分の夫が語る愛についての言葉すら、よそごとに感じていた。彼女は、虚無のなかをたゆたうように生き、病の床に伏してからは、医者に診せられることもなく死を待つだけだった。そして、息子がのこぎりで自分用の棺の板を切りこむ音が響く部屋の中で、「生きてる理由は、死ぬ準備にある」という父の言葉を心中に抱きながら死んでいく。残されたバンドレン一家の父子は、アディを埋葬するために、棺に収めた亡骸をジェファソンの町の墓地へ運んでいく。父子は水難や火難にあったり、馬車用の騾馬を失ったりという散々な旅路をへるが、その長い旅のあいだにアディの亡骸は腐り果て、ふんぷんたる死臭を放つ――。


アディにとって自分の生きる理由は、罪によって流れる《恐るべき血、大地にたぎる赤く苦い血に対する義務》とだけしか思えなかった。彼女は生前、病床で次のような独白をする。

で、キャッシュ(注:アディの長男)がお腹に来たのがわかったとき、生きてゆくのは恐ろしい、これがその返答だったと悟った。そのころだった。言葉なんてものが役に立たぬとわかったのも。言葉なんて人間のいおうとしてることにぴったりとあてはまったためしがない、とわかった。キャッシュが生れてみると、「母性」なんて言葉は、たまたまそんな言葉が入り用になった人間が作り上げたもんだ、とわかった。

で、コーラ・タルが、あんたはほんとうの母親というもんじゃないって、私に何度もいったとき、私はいつも考えた、言葉ってものは、手早く無実に、細い一列にならんで、まっすぐ空に上って、一方、行為のほうはひたすら大地にしがみつき、地べたを這ってゆくので、しばらくたつと、この二本の列はひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしまうのだ、と。また罪とか愛とか恐怖とかは、罪も愛も恐怖も全然知らない人が、全然知らぬことを表わすための、ただの音にすぎないし、この連中には言葉を忘れてしまうまでは、知りようもないものなのだ。

言葉から身を置き、言葉から隔絶した彼女は、容赦ない膂力をふるう嵐が過ぎ去るのをじっと耐えしのぶみじめな家畜のように、ただ黙して死んでいく。それによって、初めから語る言葉など持ち合わせていなかったかのように世間から扱われ、アディという人間がそこにいたことのかすかな証すら根こそぎにされてしまう。世間とは、言葉をわがものとし権勢をふるう多数者のことだ。言葉がほんとうは何を表わすのか知らず、言葉の表わす感情をいっさい感じたことがなくとも、《人間がお互いを利用し合う》ためだけに作り上げられた言葉に密着しさえすれば、世間の側に立つことができる。そうすれば、言葉から隔離され、言葉から取り残された人びとを、まるでなにもわかっていない動物かなにかのようにあしらっても文句一つ言われないのだ。


バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

メルヴィル「バートルビー」内面=偶像を拒むこと - 口の中の腐れ茸


アディは信仰ゆえに世間で通用する言葉を信じることができず、行為と結びついた苦い血の大地へと沈んでいった。一方で、メルヴィルの「バートルビー」は、このような言葉の無力にさらされながらも、世間に対するつかの間の抵抗を試みた男の物語と見ることができる。バートルビーは、世間の文法にのっとった言葉ではなく、まさに《まっすぐ空に上って》いく一列の煙のような言葉――「しないほうがいいのですが」という不可解な言葉――を断片的に発することで、自分の雇用主である弁護士を翻弄させる。
弁護士とは、法律や法用語といった決まりごととしての言葉を駆使して論理を組み上げる専門家であり、この意味で、世間に通用する権力として言葉を利用する世間の代表者だ。バートルビーは弁護士に対して反逆を企てることにより、法用語のように定義づけされておらず、行為と緊密に結びついてもいない言葉がこの世界にあることを指し示す。かれの発する言葉は、かれの《いおうとしてることにぴたりとあてはまったためし》などなく、行為からすでに《ひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしま》っている。それは意図や行為から無限に隔たった、どこにも密着していない《ただの音にすぎない》。しかし、それはお互いを利用し合うためだけに作り上げられて、世間の手垢でまみれる以前に、他の誰でもないかれ自身が知り、感じたことを表わすためだけにとっておかれた言葉でもある。ちょうど、代書人がしたためる法律文書がほんとうは何を表わすのかに関わりなく、したためられた文章が代書人にとっての意味や行為から遊離して、何を表わすでもないただの象形文字として、この世界の空隙をただようのと同じことだ。この言葉以前の言葉*1を他者が少しでも解釈しようとする途端に、それまで通用していたと思われた言葉を依り代としていた世間の権力は脱落し、人間の行為から遠く離れて、言葉は行き場を失ってしまう。というのも、どこにも密着していない、世間の合意に基づかない言葉が言葉としてあることを認めることは、自分たちがそれまで使っていた言葉が、それがほんとうは何を表わすのか知らなくとも使えていたことの告白になるからだ。そしていままで慣れしたんできた言葉は、言葉が指し示すことを《全然知らない人が、全然知らぬことを表わすための、ただの音》になり、われわれは言葉から取り残される。

だが、ただの音以外になにも残らないわけではない。煙のように茫漠とした《ただの音にすぎない》言葉の群れから立ち上がるのは、動物の境位にあえて踏みとどまるバートルビーという男のたたずまいが照らし出す、取り決められた言葉が生まれ出る以前にそこにいた人間の尊厳そのものなのだ。

*1:デリダならこれを原-エクリチュールと呼ぶことだろう