アーシュラ・K・ル=グウィン「闇の左手」を読んで

2009年2月に書いたものを再掲します。



あらすじ

両性具有人の惑星、雪と氷に閉ざされたゲセンとの外交関係を結ぶべく派遣されたゲンリー・アイは、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣等様々な困難にぶつかる。やがて彼は奇怪な陰謀の渦中へと……エキゾチックで豊かなイメージを秀抜なストーリイテリングで展開する傑作長篇(早川書房


 他人から理解されたい、自分が特別な人間なんだと認めてもらいたい、という狂おしいまでの希求は、個人それぞれの固有の人間性にではなく、むしろあらゆる人間の基底に根ざす普遍的なものなのではないでしょうか。それはつまり、マズロー欲求段階説における第二位の欲求、「承認の欲求」です。現代社会においては自己実現の重要性がとかく叫ばれがちですが、これは最高次の欲求であって、心理のより原始的な階層には「承認の欲求」が先行しているのです。
 しかし、誰かから理解される、或いは承認されるということは主体的ではなく常に受け身であるばかりか、具体的な特定の行為とは容易には結びつかないので、その欲求自体は存在感が小さく、さらには始終抽象的な形のままであり、いつまでももやもやと曖昧な捉え所のない存在であり続けます。具体が伴わないゆえに欲求が充足するということも決してあり得ず、私たちはとうとう第二位の欲求をないがしろにして第一位の自己実現にばかり目を向けるようになってしまったような気がします。教育においては、不明快な概念の一つである「子どもの権利」に混同された「自己実現」に至上の価値が置かれる一方で、他人との相互理解については「差別よくない!」「先入観だめ!」といった内容の簡単なフレーズの棒読みに終わり、それが具体的に何を意味するのかや、効果的な実践の手段については触れられてもいないのではないでしょうか。或いは「自分磨き」「自分探し」といったフレーズに代表される、「目標達成」を前面に押し出された商品やサービスが社会に溢れかえる中で、メディアは特定の種類の人々に対する不当な差別や偏見を除去するどころか、助長さえしているのではないでしょうか。中学・高校・大学受験にしたってそうです。それらは自己実現の一貫として位置するべきものであるにも関わらず、どれだけ多くの受験生が刻苦の中で自身の不甲斐なさに苛立ち、焦っていることか。そして「自分が特別であること」を投げ捨て、しまいには自尊心をも木っ端微塵にされていることか。
 このように、最高次にばかり気を取られている中で、私たちはその基幹であるはずの「承認の欲求」はなおざりにされることでいつしか忘れ去られ、いつの間にかズタズタにされています。総じて私たちは自分が理解されない、理解しようともされない存在となることを心底恐れています。だからこそ、そうなってしまった際には「誰か自分を理解してくれ、分かってくれ」という哀願と、「自分を理解できない奴なんて死んでしまえばいい」という憎悪と「自分は誰からも相手にされないクズなんだ」という絶望が入り混じった逼迫した感情が怒濤のように押し寄せ、それはかつて無い混乱と打撃を意味するのです。
 しかし、これは決して理解されないその人個人の問題ではなく、そもそもが社会単位における承認の欲求の黙殺とそれによる自己実現との奇妙なねじれ、さらには「相互理解とは如何なることか」という認識の欠如に依るもののはずです。前述したように承認の欲求とは飽くまで自分以外の他人全てが主体という、やや特殊なものです。他人に与えることはできる一方で自分が所持することはかなわず、自分がそれを手に入れるということは己の力量や努力とは直接には無関係なのです。そして承認することとはどのようなことなのか、理解することとはどういうことなのかがしっかりと明確にされ、互いに確認できる状況にあるならば、この蹉跌を乗り越えることがそう難くはないことは分かり切ったことでしょう。しかし、この社会には望むと望まざるとに関わりなく、言われ無き偏見によって他人から拒絶され、とうとう他人からの理解の希求を放棄することまでも迫られた人間たちはいるのです。
 承認の欲求の黙殺を直に解消することは難しいでしょう。その重要性は認識していても、相手を承認するということを私たちが十分に捉えていない以上は、その欲求の存在はいつまで経っても曖昧なままであり、私たちは為す術を与えられていない状態に変わりはないからです。しかし、「闇の左手」は私たちの首を縛る悲惨なねじれを取り去る一つの処方を与えてくれます。理解することとはどのようなことなのか。「理解されたい」と願う人々の希求とは裏腹に、小説が答えてくれるのは、この疑問に対してのみです。真の「理解」とは、見栄も外聞も関係の無い、己の全人間性を懸けた真っ向勝負であるということ。さらには、理解されるためにはまず自分が理解しなければならないということをもメッセージとして含んでいます。既存の「理解」が余裕と見下しの産物であるとするならば、ル=グウィンの提示する「理解」とは、まさしく敬意と懇願の産物とみなすことができるでしょう。プライドも体面も何かもを打ち捨て、相手に自分の全てをさらけ出すことから隔絶は解消されるというのです。
 両性具有の人類が文明社会を築いた地である辺境の惑星ゲセン・通称<冬>を宇宙連合・エクーメンに加盟させようと、その使節であるゲンリー・アイは単身この異境に降り立ち、この特異の社会に対して説得と交渉を試みます。始めにカルハイド王国にて交渉をするものの、そもそも連合加盟によりもたらされる文化と物資の流通には全く興味を示さない王と、見かけは協力的・友好的なものの実際には交渉を進ませずいつまでも長引かせようとする、どうにも不可解にして隠し事を秘めていそうな宰相・エストラーベンに愛想をつかし、アイは次にオルゴレイン王国の説得に移ります。この王国は一見豊かで民主的であり、権力者らも彼の存在と目的に対して一定の理解を示しますが、その実態は醜い権力争いが常に暗躍している陰惨な社会構造でした。アイは単に王国における権力増大の道具として見られ、ついには収容所へと送還されてしまいます。彼を地獄から救った者は、王と意見が一致しないことにつけ込まれて弟に宰相の座を奪われ本国追放の身と成り果てた、あのエストラーベンでした。彼(彼女)は砕身の働きによってアイを収容所から連れ出すことに見事成功したのです。未だに不信を抱いて警戒し、会話すら満足にしようとしないアイに対して、エストラーベンは嘆息します。

わたしはゲセンであなたを信じている唯一の人間であるのに、あなたが信じることを拒否する唯一の人間であるとは

そして、アイがそれでも自身を信じようとしないのを分かった上で、彼(彼女)はエクーメンに広く伝わるテレパシー技術・「心話術」を教えてくれるようアイに請うのです。それはアイの自分に対する誤解を何とか解こうとする健気な意志であり、同時に自身の未熟さを露呈してでも互いに分かり合いたいという、強く真摯な思いを表しています。

「どうか心話術を教えてください」予は気楽に恨みがましくない口調で話そうと思った。「嘘のないあなたの言葉をきかせてください。教えてください、そしてなぜわたしがいままでこういうことをしたか訊いてください」

 王国に追われる身となった彼らは、北方への逃避行を決行します。氷原をひたすら歩き続けるという辛く苦しい長旅の中、エストラーベンの真摯な態度と思いやりの心に動かされて、アイも徐々に彼(彼女)と心を交わしていくのです。

 全くの異文化にある者同士が互いを分かり合って心を通わすにはどうしたらよいのでしょうか。よく耳にするのは「お互いに理解し合う」という言葉です。具体的には社会制度の背景と事情を汲み取り、それを元に偏見の目を無くして許容・寛容の精神を以て相手とコミュニケーションを図る、といった意味でしょうか。しかし、その程度ならばゲンリー・アイは十分すぎるほどに実行しています。では、彼が異世界を入念に調査した上でかの地とその住人を「理解」し、長期間に渡って極めて理性的な態度の元で慎重に交渉に臨みながらも、難局は解消されず、さらには相手の意図を量れずに焦れているのは一体どういうことなのでしょう。彼の「異物」に対する態度に何かしらの欠陥があるのではないでしょうか。その欠陥として、彼にとっての「理解」という概念がある種、


『「上の立場にあることから生じる余裕」という余剰物によってもたらされる、どこか「上から目線の寄与」としての相手に対する押しつけ』


といったようなニュアンスを孕んでいたということではないかと私は推測します。確かにアイは異文化と接する上でこれ以上ないほど模範的な態度を取っています。まず自分が理解し、それから相手に理解される。その方針には文句のつけようもありません。しかしながら、いざ相手に理解される立場になると、「理解されて然るべき」「相手が理解しないのは自分の非ではない」という思いが無意識のうちに働いてしまっているようです。「理解してやったのだからお前も理解しろ」という押しつけの感情が彼の丁寧の説得から僅かながら滲み出ています。その証拠に、彼は自分に非を求め相手に懇願するような態度には一度も出ていないはずです。
 異文化理解という言葉はどのメディアにおいても頻繁に見られますが、その真意とは裏腹に、示唆するところがしばしば文明と原始、近代と非近代といったような二項対立に陥りやすいこともまた事実です。それだけではありません。「理解する」行為自体が大きな困難と負担を伴うという共通認識がもとで、どちらがハンデを有してどちらがハンデを有していないかという訳の分からない問題が頭をもたげて来ます。これにより、いざコミュニケーションとなると、どうしても立場が対等にならないのです。ある時は妙な負い目から過剰な気遣いをしたり、「ハンデを持っている」のを良いことに尊大にして傍若無人な振る舞いを平気でしてしまいます。
 それは、私たちが「理解」という語を常に意識せざるを得なくなることも原因にあるでしょうし、ゲンリー・アイのように「理解」に何かしらの意味や態度を付加させてしまうこともまた事情としてあるでしょう。また、「理解」という語がなぜよく使用されるようになったかという点から、このような見方もできます。私たちが「理解する」のは、対象が「理解できない」存在だからであって、既知の見知った存在には不要なわけです。それは理解できない対象が私たちの想定範囲外にあることを意味し、不可解であるがゆえに同時に警戒の念すら抱かせてしまいます。すなわち、「理解できる」「理解できない」という二者択一性の問題に持ち込むことが直接、「理解できない」存在を「異物」そのものへと認識を変えてしまうこともあり得るということです。つまり、「理解」という概念そのものが意思疎通の阻害となってしまうわけです。
 これはある種のパラドックスを意味します。私たちは分からないものを分からないものとして対処しようとして「理解」という概念を作り出しますが、、この生成物が転じて正しい対処方法を妨害してしまうのです。では、果たして私たちはどのように対応していけば良いのでしょうか。
 その答えは既に上に書いてあります。真の「理解」を体現した者とは、奇しくも使節のゲンリー・アイではなく、追放者エストラーベンでした。エストラーベンは自分を信じようとしない、つまり相手とのコミュニケーションをシャットアウトして全く「理解しようとしない」アイに対して、何とか理解されようと努力を試みたことは既に書きました。しかしながらその態度は、かつてアイが国王を説き伏せようとした際のものとは明らかに異なります。お分かりでしょうか。

「どうか心話術を教えてください」

心話術とは、アイの所属する宇宙連合で使われるコミュニケーションの手法です。原理的には彼(彼女)もその技術を使うことができるとはいえ、使用には大きな負担を抱えることになります。でき得るならば自分の土俵で意志疎通を図りたいと思うのはごく自然のことでしょう。さらには、相手の文化に従ってコミュニケーションを行うというのは、ある種非常に屈辱的なことです。それでもエストラーベンは理解するため、理解されるための困難や苦渋を惜しまないのです。たとえ不平等であることがどんなに明らかであっても、それは、それは彼(彼女)にとって問題ではなかったのです。そして、

「嘘のないあなたの言葉をきかせてください。教えてください、そしてなぜわたしがいままでこういうことをしたか訊いてください」

「きかせてください」「教えてください」「訊いてください」。これらの言葉の中には微塵の押しつけも余裕も存在しません。あるのはただ「知りたい」「知ってもらいたい」という切実な思いだけです。だからこそプライドも意地も何もかもを捨て去って懇願に徹しているのです。私たちは普段、平身低頭して何かをひたすらに懇願するということを滅多にしません。それは自尊心や意地が邪魔していることもあるでしょうが、何より相手に自分の無防備をさらけ出すことを恐れているのだと思います。頭を下げるということは自分の力量や人間性を暴露することであり、それは完全に相手に主導を渡すことを意味します。それでも事態が解決されなかったら今度こそ面目は丸潰れになってしまうことでしょう。私たちが恐れるのはその最悪の事態であり、ゆえに懇願しないことで自分に保険を掛けているのです。しかし、エストラーベンはそんなことには脇目も振らず、全人間性を懸けてアイとの交流を求めました。自尊心を打ち捨て、保険も掛けず、己という一個の人間として堂々とアイに対峙したのです。
 その結果はご存知の通り、アイの心を開かせることに成功します。とはいえ、エストラーベンの目的はただ「知りたかった」「知ってほしかった」だけなのです。アイが彼(彼女)を信用するようになったのは、エストラーベンの真摯な思いに打たれ、心動かされたゆえに他なりません。自らの純粋なる思いを打算無しにぶつけられて邪推する者がいましょうか。私たちはその健気さに驚嘆する共に、間違いなくその真摯さに深く感じ入ることでしょう。
 つまり、真の「理解」とは常に「懇願」なのです。自ら下位に甘んじることを顧みず、全人間性を懸けた「知りたい」「知ってもらいたい」という願いは、相手に頼み込むこととは切り離せない関係にあるのです。「理解されたい」と思うのであればまずは理解しなければ。「理解したい」と思うのであれば、私たちは懇願する必要があります。理解しようとされないからといって憎悪を抱くことはてんで見当違いです。理解されないからといって絶望を感じることもありません。理解してほしくて哀願をすることも不十分です。なぜ理解されないのだろう? なぜ理解できないのだろう? どうしたら理解されるだろう? どうしたら理解できるだろう? まず生まれるべきものはそうした疑問であり、それらはもちろん頭の中でこねくり回していても答えが見つかるものでは到底無いでしょう。だからこそ私たちは懇願する必要があります。なぜなのですか? どうしたらよいのですか? 私にできることは何ですか? そうした平身低頭は、お涙頂戴の同情を誘うような悲愴感とはまるで対極にあるはずです。めげない強い意志と誇り高き優しさを相手に毅然と見せつければ、いずれ見えてくるものがあるにちがいありません。
 表面をなぞっただけで物事を理解した気になって独断することがまかり通る世の中にあって、本質を包み隠さずに堂々とさらけ出すことの重要性は逆にますます高まっていく気がします。それは確かに必要ではないけれど、相互「理解」する上で相手を知ることがどんなにか重要であるかはいつの時代においても変わらないはずです。「理解されないならそれでいい」「理解しようとされないからしょうがない」という態度では、両者が互いに知ることをシャットアウトしている状況に変わりはありません。それでは「理解しない」「理解しようともしない」人間を助長するだけのことです。「承認の欲求」が満たされにくい今だからこそ、私たちは承認されるため、すなわち真に「理解」されるために自ら行動を起こすべきなのだと思います。そしてそれこそが「懇願」という尊い行為に凝縮されているのではないでしょうか。